2012年7月24日火曜日

大江健三郎 遅れてきた青年

先日大江健三郎の遅れてきた青年という本を読みました。昔彼がノーベル賞を取った後日本から買ってきて、読み終わったのでずっと本棚に座ってましたが、断捨離で本を整理してるので、その前にもう一度読もうと思って読んだわけです。

でも、ぜんぜん内容を覚えてませんでした。本当にほんの少しも覚えてなかった。昔読んだときも、面白かったという記憶もないし、どちらかと言うとむしろ、こんなものかとがっかりした記憶があります。

それでも、長い本なのにすらすらと読めるし、かといって易しい本と言うわけでもないので、やっぱり読ませる何かはあるんでしょうね。

私は小説はゆっくり読む主義なので、じっくり読んだので、なかなか素晴らしいなあと感じた表現や、なるほど目の付け所、観察が鋭いと思った部分もありました。

たとえば、主人公は敗戦直後の時に中学生くらいなのですが、敗戦のごたごたで仲たがいしていた在日朝鮮人の親友と私設軍隊に参加するために家出するのですが、その友達がちょっと遅れて待ちあわせに現れます。そして「もう僕が怖気づいて来ないかと思ったか?」と聞かれ、『そんなことは一瞬も疑わなかった。それが最上の幸せだ。 』との記述がありました。それはその前の早朝の情景などとかみ合って、その非常事態の中での幸福感がしっかりと伝わってきました。

でも、読んでいて高揚感を感じるのはこの数行くらいでした。後はかなり屈折した小説。共感を感じる部分はほとんどなかったですね。日本にはそういう屈折した小説がごまんとありますから、 記憶に残らなかったのかな。

まあエイブラハム的に言えば、あんまりこういうの読んでいるとよくないかなあという感じのした本でした。

ところで、この本の前半はその敗戦直後の四国の閉鎖的な村が舞台です。そこでは村人による朝鮮人差別や部落民差別、無知で無責任な噂話、占領軍へのへつらいと弱者のスケープゴート、横暴な教師、子供への折檻や体罰、男達の汚らしい冗談などがリアルに描かれてます。本当に昔ってこんなんだったんでしょうね。心の貧しくて汚い人たち。

昔の人の心が汚くて、今の人の心が綺麗だという比較をするわけではないけど、少なくとも現代は女性や子供の虐待や、差別が(少なくとも表面的には)なくなっただけでも、いい世の中になったと思いますよ。今よりも昔のほうが人の心が美しかったという幻想がまかり通ってるようだけど、そんなことは絶対にないと私は思います。

世の中はいろんな面で昔より断然よくなってると思います。

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2 件のコメント:

あくあ さんのコメント...

「朝鮮人差別や部落民差別、無知で無責任な噂話、占領軍へのへつらいと弱者のスケープゴート、横暴な教師、子供への折檻や体罰、男達の汚らしい冗談」

今も存在すると思いますよ。田舎の親戚なんかが集まったらそういう話になりそうなのが目に浮かびます。

教育しないと人間はいまだにそういう本質を持ってるんじゃないですかね。教育を受けた人は「それはいけない」と洗脳されているだけなのかも。

これまでに二人ほど「民度」という言葉で、住む町によって人間の質が違うから、民度の高い町に住むのが大事だというようなことを言う人がいて(要するに彼らは東京の都心の金持ちが住んでいる町に住んで、子供を私立のいい学校に行かせている)、田舎出身の私は反感を覚えていたのですが、こういうことがあるかないかという意味では認めざるを得ないかもしれません。

子供のいじめなんかの状況も違うのかなぁ?金持ちの子供も屈折しているイメージあるけれど。

いずれにしても、こういう本は今は読みたくないですね。屈折した本って、高校生くらいならいろいろ考えさせられていいんだろうけど。今は元気にしてくれる本の方がいいですね。それがないとすぐに腐っちゃいそうな社会に生きてるということなのかもしれないけれど。

Atsuko さんのコメント...

あくあさんが数ヶ月前に書いていた本で、イスラム教のある国の女性で家族によって痛めつけられた話、おぼえてます。その村でも同じような感じで、「心の汚い人たち」とあくあさんが書いていたのを覚えてます。

人間って貧しかったり生活に汲々としているとそうなると思っていたけど、良く考えると教育なんですね。

「民度」、そういう言葉があるんだね。まあ教養や知性のある人はそういう言葉を人前では使わないだけで、実情としては否定できないよね。

たしかに。私も今はこういう本自分には向いていないなあと思いました。大学生の頃でも、本当はこんな本読まないほうがいいのかも。