2015年6月19日金曜日

心の平安の秘訣

インターナショナル・デー・オブ・ヨガのイベントで、ヨガ関連のレクチャーなどをいろいろネットで読んだり聞いたりしました。

ヨガはもちろん体のための運動ではあるんだけど、究極的には、心の平安のためにするものだと思います。気軽にヨガを始める一般の人も、90パーセントは健康のためと思ってはじめても、心のどこかでは、何かそれ以上のものを見つけられるんじゃないかと期待しているじゃないでしょうか。そうでなければ、ヨガ以外のエクササイズはいろいろあるんですから。

心の平安。 それは幸福と同意語なのか。昔はそうは思わなかったですね。でも今は、そうなんじゃないかと思います。自分や周りに何が起きようとも、心の平安が保てれば、それって幸福だと思いませんか?

平安は、実は誰も心の中に持って生まれたものだそうです。誰もが、心の奥底に、「心の平安」が潜んでいるんです。でも問題は、それを知らないこと。

なぜ知らないか。それは、心に中にあまりにもゴミがありすぎて、 気づかないからです。

どんな曇りの日でも、天気の悪い日でも、雲の上には太陽がさんさんと輝いているって考えたことありますか?

エイブラハムのたとえによると、コルクの栓と同じだそうです。普段のわれわれの状態は、コルクを水の底に沈めて、それを手で必死で押さえつけている状態。その手を緩めるだけで、コルクは水面に浮上してくるのに。



つまり簡単に言い切ってしまえば、そんな風に、心の中には平安があるのに、われわれの人生・・・というか、そんな大げさなものではなく、日常生活には、あまりにもゴミがあるから、それが心に平和をさえぎり、幸せになれないわけです。

何がゴミか?これは人によって違うと思うけど、例を挙げると、どうでもいいのにこだわってること、楽しくないこと、義理、しがらみ、意地、世間体、プライド、ちょっとしたイライラ、自分の正当性を押し通すこと、人のすることに関与したり口出しすること。

これは別に新しい考えではないのだけど、今日改めてつくづくと、「そうか、私の人生からゴミを取り除けばいいんだ。」と、目からうろこが落ちるように感じました。

気分が悪いこと、イラっとすること、腹が立つこと、気になること、心配なこと、口惜しいこと。そういったことからは、気づいたらすぐ、距離を置こうと思います。そして具体的に、付き合って楽しくない人達とは遠ざかっていこうと思うし、心配事からはあらゆる手段で心をそらして、 好きなこと以外はできるだけやらないようにしようと思います。

そんなこと簡単にはできない立場の人もたくさんいるだろうけど、こうして考えると、私って本当に自由な立場。シンプルにシンプルに、楽しいことだけをして暮らして生きたいです。

今日の夕日はこちら。海辺のカーパーク。時間は8時半くらいなので、夕日というには日が高いです。今日は日没は10時過ぎでしたよ。

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2 件のコメント:

あくあ さんのコメント...

心の平安が幸福と同義だというのは納得です。で、昔はそうは思わなかったというのも同じですね。年なんですかね。

エイブラハムのコルクの例えはいいですね。

私はそのゴミがほとんどなくなってきている気がしてますが、考えてみたら、サラリーマンの頃はゴミがたくさんあったので、やはり自営業になったことが心の平安=幸福に最大の貢献をしてるのかなと思い至りました。

Atsuko さんのコメント...

やっぱり若いころは、エキサイティングな要素を幸福に求めていたんやろうね。「楽しくって楽しくって」みたいなものを。

やっぱりサラリーマンのころはゴミ多かった?究極的には、どんなものも自分の気持ちの持ち方で、心の平安の障害になったりならなかったりするわけだろうけど、なかなか環境的に、それがやりやすい環境とそうでないのがあるよね。組織で働くのはやっぱりゴミの原因やね。