2009年9月26日土曜日

無駄な時間

私たちが日本から帰ってきて、早いもので1ヶ月以上たちました。ルイとチャーリーの学校が始まって、3週間ちょっとになります。私の仕事も再開し、子供たちのお稽古事もいつもどおりになりました。ご存知のように、私の仕事は毎日する時間も場所も違うし、もちろんこどものお稽古事も毎日違うから、その日その日行くところ、することが違います。

たとえば月曜日を例にとると、朝7時過ぎに起きてお弁当を作り子供たちを8時半にバスに乗せ、そのあと朝ごはんを食べて、20分瞑想のあと家事を少ししてから9時40分に歩いて仕事に行きます。

そのあと12時前に帰ってきて、家事の残りを済ませたり帳簿をつけたりしたあと、昼食。1時半までには済ませて片づけをします。このあとコンピューターでメールなどをチェックして、1時間ほどヨガ。そのあと3時位からエッセイを書いたり、日によっては庭仕事をします。子供が4時前に帰ってくるので、おやつを食べさせて宿題、ピアノ等をさせたあと、小一時間ほどコンピューターに向かったり、庭仕事の残りをしたりします。そして5時45分に水泳に連れて行って、私は帰ってきて食事の支度。7時半ごろデイブと子供が帰宅。食事。子供を9時ぐらいまでには寝させます。

そのあとまず洗濯物を片付けて、お風呂。そしてブログをつけたり、人のブログを読んだり、メールを書いたりします。11時半には寝室に行きたいんですけど、これがついつい遅くなって、コンピューターを消すのは大体12時過ぎ。

このあと、すぐにベッドに入れば7時間くらい寝れるんですけど、私はここからが長い。まず明日の着るものを決めて、それの準備。それから詩を15分くらいで書いて(毎日簡単でも良いから書くトレーニングしているので。)、日によっては日記をつけます。そして枕もとの電気だけにしてベッドに入る。すると枕もとの本が気になります。最近は詩の本を手にとってひとつ詩を読んで、そのあと20分くらい本を読んで、やっと電気を消します。

そしてベッドの中で、眠ってしまわないように目を開けて、引き寄せの法則の本にあるとおり、自分の心に描く人生を思い浮かべます。そしてやっと眠りが訪れて、1時過ぎには寝るかなあ、という感じです。

たとえばこの日を例に取ると、必ずしなければいけないことは、子供の面倒、仕事、家事、食事の支度。

切羽詰っているわけではないけれど、しなければいけないのがメールのチェック等、庭仕事。

自分の趣味でやっているのだけれど、自ら日課として課しているものは、瞑想、ヨガ、エッセイ書き(これは時間のある日だけ)、ブログ、作詩、ベッドのなかでのビジュアライゼーション。

そういうわけで、私は自由業だし、それも拘束時間短いし、いくらでも自由時間があるようなんだけど、実際には毎日毎日、次々と予定に追われています。

なのですが、コンピューターをつけたりブログを書いたあとや、家事をしながら退屈しのぎにテレビをつけてしまったりしたら、ついつい時間をとられてしまい、ああ、時間を無駄にしたと毎日のように思うことがあります。夜本を開くだびに、ああどうしてこんなに読み進まないんだろう。もっと時間を有効に使って、たくさん本を読みたいと思うし、朝は朝で毎朝一番に思うのは、「ああ、もっと早く寝ればよかった。今日は早く寝よう。」です。でもここ20年くらい、病気のときなどを除いて一度も早く寝たことなんてありません。

でもね。時間の無駄のない生活って、すごく疲れる気がします。私が忙しい忙しいと思ってやってることの半分くらいは、ヨガだとか瞑想だとか、まったく100パーセント私が好きでやってることのはずなのに、そしてこれこそ究極のリラクゼーションというようなことなのに、「やらなければ」と思うだけで、ちょっと疲れる。

逆に私が「時間の無駄」とみなしている、ウエブサイトをあちこち見るとか、洗濯物をたたむ間にちょっとだけとつけたテレビ番組を1時間見てしまうとか、庭に野菜をとりに行って、そこで30分ほどぶらぶらしてしまうとか、そういうのがリラックスになる。心がつかの間時間から解き放たれて、スケジュールどおりに時間をこなさなくってもまあ良いか、という気になる。心に余裕が出てくる感じ。

夜寝室に行ったあとも、ついつい長々と日記をつけてしまったり、昔の日記を読み返して1時間くらいたってしまったり。ちょっとだけと思って読んだ本を、1時間くらい目がかすむまで読んだり。早く寝なきゃ思う反面、まだ夜明けまでは4-5時間あるし、大丈夫、たっぷり時間あるよ、なんて気になってくる。こういう時って、時間の無駄なんだけど、すごくリラックスしてるんです。

結局、時間の無駄って言うのは、もちろん無駄は無駄なんだけど、それがないとあまりにも時間にがんじがらめになって、つかれきってしまう。無駄な時間というのは、自分に課した義務もターゲットもない、自由なだらんとした時間で、実は結構それが大切なんじゃないかなあと、最近思うようになりました。そういう予定のギャップというか、ふと緊張の緩んだ空白の時間って、もしかしたら総合すると、結構クリエーティブなエネルギーの糧になっているのかもなどと考えてます。

6 件のコメント:

こんの さんのコメント...

「無駄な時間というのは、自分に課した義務もターゲットもない、自由なだらんとした時間で、実は結構それが大切なんじゃないかなあと」
そうです!よぉ 無駄な時間なんてない! そう思います
うう、今日のブログも(いいなぁ)です
時間に呪縛される必要はない。ないといっても気になる、それが呪縛なのですが...
時間から解き放たれる、それが理想なんですがねぇ
時間・時ってまか不思議な代物なんですよねぇ

Atsuko さんのコメント...

こんのさんもそう思われますか?「無駄な時間なんて無い」とは、頼もしいお言葉です。「日本画のように、何も描かれていないところこそ、意味がある」という英語の引用をきいたことがあります。時間もそんなものなのかなあ。時間に縛られないときにこそ、心が解放されて、新しいものを生み出す余裕があるのかも。
その空白の時間がまとめて1日とか半日とか取れれば良いんですけど、私の場合は今のところ、子供を送り出したあと、ふと気がつくと30分もお茶を飲んでいたとか、中途半端なのが残念なのですが。

本読みと山歩き さんのコメント...

中国の荘子がいう“無用の用”というやつですね。
「一見無駄なように見える(感じる)ものが実は有益」

すべてのもにには意味がある。を信じる派ですよ私は。
時間という相対的なものですら、そうですね。我々、小市民(笑)の葛藤は続く。
“ふっと気がつくと30分もお茶を飲んでいた”これこそ、脳のリラックスさせる有益な時間の使いかたです。

Atsuko さんのコメント...

山歩きさん、そういわれるとだんだんそういう気持ちが強くなってきました。あらゆる時間を有効に建設的に生産的に使わなくてはという脅迫概念がちょとあるのかもしれません。趣味に時間を使うとしても、「これは趣味の時間」というレーベルがないと気になる。ボーっとお茶を飲みながらあれこれ脈絡なく考え事してるのって、時間の無駄のように思ってしまうんですけど、そう感じるのがまさに小市民的なんでしょうね。

おっしゃるとおり、日生産的な時間も使い方も、有用なのでしょう。

こんの さんのコメント...

あつこさん まだまだ若いですから、そうなのでしょう。明日あす70になる私ですら、やっと時間に身をまかす(委ねる)心境になってきてます
昔は、時間の無駄遣いがイヤで常になにかやっていないと落ち着きませんでした
今は、時に身を委せられる気分がでて、うん 安心立命のこころになってきてます
「存在する」(存在してる)こと自体にありがたみを覚えるのですよぉ

Atsuko さんのコメント...

やっぱり年って関係あるのでしょうか。定年退職なさってることも関係あるのかもしれませんね。働いていたり、子供がいると、自分のやりたいことをするには、まずしなければいけないことを済ませてからの、後回しですからね。
今でも数年前に比べると子供が大きくなって、時間に余裕ができたはずなのですが、それと同時にやりたいことも増えてきたので、時間に追われ続けています。