2009年9月29日火曜日

読書感想文 Midnight Press






今日も一人でプールに行きました。今日はちょこっとクロールも交えながら、平泳ぎで1200メートル、ノンストップで泳ぎました。結構自信がついてきた。その気になれば、5キロくらいなら泳げるような気がしてきました。 

マイ電動ドリルの話がコメントで出ましたが、私もマイかなづちを持ってます。これです。よく見るとgirly hammerと書いてあります。girlyというのはただ「女の子の」という意味だけではなく、「おんなおんなした」というか、ほんのちょっとさげずむ様なな意味合いのある言葉です。でもこれがよくできていて、持つところをあけるといろいろなサイズのドライバーが出てきます。


さて、今日書くのは、1年ほど前に日本から2冊送ってもらったMidnight Pressという詩の雑誌についての読書感想です。内容は半分くらいが詩で、半分くらいが散文とか書評とかインタービュー、対談になっています。

詩のほうはわかりにくいというか、難解な詩が多い。こういうのをまじめにこつこつ読むのはしんどいので、1日ひとつとか二つのペースでさらりと読んで、気に入ったのだけ読み返すという読み方をしていました。

学校で読まされた詩って、読解だとか意味を考えたりだとか無理やり暗誦させられたりだとか、堅苦しい読み方が多かったですよね。でも本当はそんな読み方よりも、意味なんか考えずただ気に入ったものだけを何度も読んで、それでその一部だけでも記憶に残って、ふとしたときに思い出す、なんていうのが詩を読む醍醐味ではないかなあと思うようになりました。その詩の一部を自分の考え方の一部に取り込んでしまうような。
詩っていうのは歌にもつながるもので、意味だけでなくリズムだとか音感が大切な要素ですから、気づいたら覚えてた、口ずさんでたというのが、詩なんじゃないかなあ。

たとえば私は時々美しい光景なんかに出会うと「世はすべてこともなし」っていう言葉が浮かんできて、どう頭をひねってもこれ以上の表現って思いつきません。それでこれがどこから来たかというと、多分ロバート・ブラウニングというイギリスの詩人の詩の翻訳を昔どこかで読んだのが頭に残ってるんだと思うんだけど、その辺は良くわからない。でも確かに、この一節は私の精神の一部になってるんです。

ああ話がそれた。midnight pressにもどると、谷川俊太郎が田村さと子というラテンアメリカ専門の詩人をインタビューする記事があります。これを読むと、詩にはぜんぜん関係ないんだけど、南米ってほんとに半端じゃなくまだ危ない国なんだなあと、しみじみ思いました。英語ではLife is cheapという表現があって、これって命は尊いの逆なんだけど、ほんと南米ではライフ・イズ・チープなんだなあ。

それから谷川俊太郎さん。彼って戦後の日本を代表する現代詩の第一人者ですが、彼って詩人的な敷居の高いところがぜんぜんなくって、今ではかなりお年だと思うのに、すごく精力的にいろいろ活躍されています。この雑誌でも、詩はもちろん載っているし、前述のインタビューだとか、アバンガルドでパンク的な若者の詩のムーブメントに参加して、その対談をしたり。彼って昔はスヌーピーの漫画を翻訳していたし、確か鉄腕アトムの作詞も、宮崎駿のアニメ、ハウルの動く城の主題曲の作詞も彼だったように記憶しています。もっとも彼の書いた本によると、「詩では食べていけないから」ということなんですが。谷川俊太郎でも詩で食べてはいけないんだなあ。

あとは詩の教室というページがあります。これはある意味ではとっても日本的だと思いました。投稿されてきた詩を分析して批評するわけですが、こういうのってすごく勉強になる反面、それはある一人の詩人(おそらく)の意見でしかない。その辺を忘れないで読むと、とっても参考になるけど、こういうのをまったく文面とおりに100パーセント真に受ける人もいるんだろうなあ。すごい詩人とか作家とかアーティストって言うのは、こんな風に細かく分析されて徐々に上達するというようなものでもない気もします。他人の批判だとか規制の価値観なんかをぜんぜん意に介さないほどでないと、すごい詩人にも芸術家にもなれないんじゃないかなあ。まあわたしのような人間には、ありがたい記事ですが。

ひとつ気に入った詩を見つけたので載せます。岡田すみれこという詩人です。彼女の詩が何篇か載っていて、結婚して何年も経つ旦那との仲が今ひとつうまく行っていないんだろうなあと思わせる詩のあとに、これが出てきます。

「わたしとかれ」

三日ほど家を空けた
猫は玄関に寝そべったまま
黙って待っていたという
わたしが帰宅すると
家人の間からのっそり顔を出して見上げた

夜も更けたので寝ようと思うと
かれは階段の横に
ひっそりとすわっていた
秘密の約束のように
わたしは胸躍らせてしゃがみこみ
深い思索のようなかれの目を見つめて
柔らかな毛並みに手を入れる
確かめるようにわたしのからだの匂いを
何度も嗅いでいるときに
ふっと電気が消えた

「わたしね、かえってきたでしょ?
でもまた出かけるのよ」
「知ってるよ、またいなくなるんだね」

暗闇の中で会話をすれば
ほてったからだに猫の小さな鼻が冷たく
心地よい
その夜かれは
夫のベッドの脇をすり抜けて
わたしの腕の中にそっと滑り込んできた
つかの間の愛しい時間を、慈しむかのように


この猫との会話がなんだか胸にひしひしと来ます。それでどういうわけで、この人は3日家を空けていて、また出て行くのかなあとか、あまり良い事情ではないんだろうなあとか、そんな大変なときに猫なんてかまってる余裕はないんだろうけど、その中にあってつかの間の猫との会話がなんか心に響くんですよね。猫と人間の愛情、なんていう安っぽい感情以上のいろいろなものを感じます。

こんなに良い詩のあとで恐縮ですが、わたしも詩のブログのほうにひとつ載せましたので、よかったら見てやってください。短いですから。
http://fordfarmpoems.blogspot.com/

リクエストをいただきましたので、そこに去年撮ったこの辺の海の写真を載せましたが、詩アレルギーの人のために同じ写真をここにも載せておきます。

5 件のコメント:

こんの さんのコメント...

「詩でも写真でも、作品になったら、もう自分の手を離れていきますからね。」

そ、そうです
独り歩きというか、作者が意図したようにはなかなかいかないですねぇ

それだけ膨らんでくのであれば、それこそ佳い作品といってもいいのかなぁ...と

金槌 うう 面白いです

ディブさん やはり本職(プロ)なのですねぇ(頼もしい!)

本読みと山歩き さんのコメント...

相手になにかを伝える時、言葉が少なければ少ないほど、真意を伝えるのは難しい。
言葉の意味、言葉間のつながり、それを理解する背景(文化?)が同じ思いにならないと。
俳句・和歌・詩などそうではありませんか?
(このへんがわからないのは私だけか?)

それとも、それは読者側にまかせ、さあ自由に感じてくださいと詩人はおもっているのでしょうかね。
(芸術に関する感性が私は低いので、そのへんがよくわかりません)

いずれにせよ、
自分の思いをどう相手に伝えるか、はまると面白そうですね~。
最後の猫の詩もせつなさがひしひしと伝わってきます。

海岸の写真はいいですね!
手前の足元の海岸で高度差がわかるし、岩場の感じ、たぶんその手前は砂浜とみた!
フランスのノルマンディのエトルタ!?の海岸に似ているような。
こんなところが近くにあるなんて。

Atsuko さんのコメント...

詩でも写真でも絵でも、見る人読む人が白紙状態で受け入れるのではなく、それを自分という媒体を通して、理解し解釈するのですから、もうその時点で作者個人的なものではなくなりますね。

あるアメリカ人の詩人が書いていたのですが、彼女はある日慈善事業の資金集めの一環で、一人10分でお客さんに詩を書いてあげていたんです。その詩をあるお客さんは、湾岸戦争に行くときに娘の写真と一緒にずっと身に着けて、それを心の支えにしていたとか。でもその詩人自身は、ぜんぜん何を書いたかなんて覚えてないんです。自分の手を離れるって、こういうことなんだろうなあ。

Atsuko さんのコメント...

山歩きさん、短歌とか俳句は本当に難しいでしょうね。わたしはそもそも難しい言葉がわからないので、手も出ません。現代詩はその点何のルールもなくて、内容も狙いも何でも良いから、読み手を気にせず自由に書けば、誰でも書けるのでは。

この写真の海岸はうちからちょっと離れていて車で30分位かな。この先を歩くと、小川が滝になって海に入る場所があり、ここがこの世のものとは思えないほどきれいなんです。わたしが見た中で、世界中で一番良い場所。昔は車で別に道からで行けたんですが、今はその道が狭くなりすぎて、海岸沿いに小一時間歩かないといけないので、人がいなくて、またさらに良い。

でもこんなところなのに、やっぱり行くと一人くらいは山伏のようなダイハードなサーファーが岩の間でサーフィンしています。どうやってボードを持ってきたんだろう。

sumireko さんのコメント...

こんばんは。ふとした偶然か、不思議なベクトルのようにこちらに流れ着きました。
感想文をいただけることは、未熟な私にとって大きな励みとなります。
ありがとうございました。
岡田すみれこ
よろしければ、こちらへもどうぞ。

http://blog.goo.ne.jp/sumireko_2005