高校の卒業文集に、「強靭な心が欲しい。」というようなことを書いた気がします。
世の中いろいろあるじゃないですが。スムーズに何もかもがうまく行くわけじゃなく、山あり谷あり。人生は静かに流れる長い川ではないってことに、そろそろ感づいた頃だったんじゃないかな。それで、何が起こってもタフな心が欲しいと思ったわけです。
それはずっと思い続けていて、その答えを模索してきたように思います。
20代半ばの頃、誰かに、「強さとは、Vulnerable であること。」といわれました。Vulnerableというのは傷つきやすいって言う意味なので、矛盾しますね。
でもしばらくして、なんとなく意味がわかった気がしました。Vulnerableな心というのは、心に壁を作ったり心を閉ざすのではなく、傷つくことも恐れない心という意味なんだろうなあと思います。
最近、禅やらメディテーションやらヨガの本をよく読んでいるのですが、また思うことがあります。
「マインド・コントロール」って言う言葉は、洗脳とか、だれかが他人の考えをコントロールするという悪い意味ですよね。でもそうではなく、Control one’s mind、自分で自分の心(マインド)をコントロールする ことが、「強靭な心」なんじゃないかな。
頭に思い浮かぶ考え事って、毎日些細なことから大事なことまでごまんとあり、しかも心配事があると、それを頭から消し去ることは難しい。心配しても何の利点もないってわかってるのに。なにか頭に来ることがあっても、別にどうすることも出来ないとわかっていても、やっぱりそのことが頭を離れない。
でも、訓練すれば自分の心や感情って、コントロールすることが可能です。心配事があっても、そのことで心をとらわれないことって出来る。
そういうことが、もしかしたら割りと簡単に出来る人もいるのかもしれません。私は昔は情熱的というか、瞬間湯沸かし器的部分も強かったので、 最近は訓練して心をコントロールしてます。
日本人は精神的で心平安という偏見が西洋ではありますから、私の(家族を除く)周りの人は、そういう目で見てる人も多いと思うんだけど、本当はそんなことぜんぜんないんですけどね。しかもヨガの先生だし。
ヨガの先生でも、普通にイライラしたり、心配したりします。
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2 件のコメント:
そうねえ、確かに、自分で自分の感情はコントロールできるし、出来るようになると思うので、日常生活においては常に平静を保てるようにはなると思うけど、ストレスの発散という意味では、どこかで感情を発散させてあげる必要はいつまでたってもあると思うけどね。
あの人はこうである、これはこう解釈すればこうなので、認めてあげるべきだ、そうだ、
と理性的にコントロールは出来ても、
なんやそれ、ありえへんやろ!あほちゃうか、やめろ、ぼけ!
と言いたい気持ちは何らかの方法で発散させてあげた方がいい、という意味です。
そうしないと、人間にはどこかに問題が蓄積すると思いますね。
そうやね、どうやろうね。フロイドとかユング的な西洋的な考えではそうやし、仏教的にはちがうそうやし。
エイブラハムは「感情的スケール」の問題で、「絶望。無力感」よりは、「怒りを爆発」させるほうがいいって言うてるよね。怒りから、あきらめ、理解、許しと、だんだん改善させて行くのが理想。さすがにエイブラハムはいいこと言うわ。
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