先日母のお葬式で、曹洞宗のお寺のお坊さんが来てお経を上げてくれました。お通夜とお葬式、火葬場と初七日で、4回のお経で、お布施は30万円。高いと思いました。
私はそもそも、お坊さんもお寺もなんとなく強欲で胡散臭いという先入観がありました。元々のきっかけは、30年以上前に祖母が亡くなった時。祖母の戒名に並と上があり、並なら 10万円、上なら20万円とのことでした。臨済宗のお寺だったと思います。
お坊さんというのは、ただ登場してお経を上げて消えていくものだと思うんですが、このお坊さん(私よりちょっと若いくらい。40代前半くらいかな。)は、お通夜の日、お経を上げたあと出席者のほうに向かって、ほんの短いお話をしてくれました。お通夜とは、亡くなった人をしのんで、夜を通して親族等でその人の昔話などをする機会であること。お線香を一晩中上げるということになっているが、それはまあどっちでもいいですとのことでした。その話し方がやわらかい、気さくなやさしい話し方で、好感が持てました。
お葬式の翌日(こどもの日でした)、妹と二人でこのお寺に行きました。母の永代供養を申し込むためです。そしたらお坊さんが、まるで予約でも入れていたかのように「やあやあ、いらっしゃい。」という感じで袈裟を来て出てきました。そして永代供養の内容を説明してくれました。
こちらは明朗会計で、永代供養代が33万円で、命日などにお経を上げてもらいのは、どんな機会でも1回1万円だそうです。
特にいたわりの言葉や優しい言葉をかけていただいたわけじゃないんだけど、なんとなく受け答えにさらに好感を感じました。
考えてみれば、お坊さんというのは、どういう理由だか知らないけど、仏の道に入ることを選択し、人生を(主に)死者の供養にささげている人達なんですよね。社会のファブリックには、重要な欠かすことのできない職種(?)だと思いました。
ところでお坊さんって、一体どんな修行をしてお坊さんになるんだろう。曹洞宗や臨済宗は禅宗だから、やっぱり毎日禅の修業をしているのかな。
そこで思ったんですが、どうしてこういう禅の修業などの門戸って、一般人には開かれないんだろう?普通はお寺にお参りしても、なんとなくありがたそうな仏像に手を合わせて、お賽銭上げて帰ってくるだけじゃないですか。お坊さんの法話だって、聴けるわけでもないし。これだけじゃ、宗教的体験とはいえないし、精神的なものを渇望する心の渇きがぜんぜん癒されないですよ。
イギリスでは仏教といえば禅のことなんですが、1週間だの数日だの、禅の修行コースというのは結構人気があり、いろんな人が行ってます。日本でもそういうのあるのかな。普通のサラリーマンが、数日休みを取って、どこかのお寺にこもって禅を組んで修行をするコースとか、聞いたことないけど。
日本人って、精神的にすごく枯渇してると思います。大阪の本屋さんに行ったけど、スピリチュアル関係の本がすごくたくさん並んでいました。
そういう人達が仏様の法話を聞いて、禅の修業などが出来る機会って、もっとあっても良いと思うけど。 オウムをはじめ、いろいろな新興宗教が人を集めるのも、日本の既存のお寺さんたちが、一般人に門戸を開かないからだと思います。仏教の教義も、知ってる人は少ないし。
話はぜんぜん変わりますが、妹がまた後日一人でこのお寺に用事で行ったとき、またこのお坊さんが、今度は真っ青な普通のTシャツで出てきたそうで、そのセンスに言葉失ってました。
ではこちらもよろしく
イギリス(海外生活・情報) ブログランキングへ
2 件のコメント:
私は自分で調べたことはないので正確には知らないけど、そういうの日本にはいろいろあると思うよ。瀬戸内寂聴さんもお寺で講和してるし、写経の会とか、座禅とか、滝に打たれるとか、いろいろあるよ。多分。
ないことはないやろうね。でも身近で行った人、聞いたことないけど。イギリスのほうが、身近で仏教の修行に行った人がたくさんいるというのは、なんか変といえば絶対変やで。そういえば日本では、高野山とかでありそう、知らんけど。
講話も、イギリスなら(日本でも同じやけど)キリスト教の教会に行けば、毎週講話あるよね。でもお寺では講話はないでしょ。普通のお坊さんは、念仏あげることしかしないでしょ。
コメントを投稿