2009年10月6日火曜日

新井先生、大黒先生、秦先生

昨日の続きの高校の同窓会の事を書きます。

同窓会のブログヲ見ていたら、お世話になった先生方の出欠の予定が書いてありました。まだ未定の先生が多いです。そのうちで、新井先生だけ太文字になっていました。出欠はまだ未定。ですがその下に実行委員からたっての希望で、ビデオダイアリーをお願いするとのことでした。

新井先生は国語の先生です。多分その頃で50歳はいっていたから、もう75歳以上だと思います。私は現国も古典も習いました。新井先生のことを説明するのはとっても難しいです。悪い先生では決してありませんが、良い先生とも簡単にはいえない。なんというか、そういう枠の中に入らない人なんです。容貌はちょっとゲゲゲの鬼太郎のこなき爺のような感じです。「新井すまし」というあだ名もありました。なんともとらえどころがないからそう呼ばれたんでしょうか。

さすがに古典の授業の方は新井先生でもまあまあ普通にカリキュラムどおりになってました。外国語のように覚えないといけないことが多いから、仕方なかったんでしょうね。授業の形式は質問をして、「じゃあ次の人」と席順で当てられます。わからないと立たされて、「次の人」「次の人」と順番が廻っていきます。そして正解が出ると、立ってる人もみんな座れます。ただそれだけです。別にこれといって教えようとか、受験に備えさせようなんて気持ちは微塵もなかったと思います。

でも新井先生の醍醐味は現国。教科書に載っているテキスト(大体文学作品からの抜粋で、20ぺーじくらいかな)を順番に当てていって一度音読すると、それでおしまい。そのあとは先生がまたはじめから読みながら、同じ調子で質問して当てていきます。でも現国なので特に難しい読解も文法もないので、ただ先生が思いつくままに質問していくんです。ちょうどブログを読んで、コメントしていくような感じです。

一度は「日本で一番おいしい最中はなんですか」という質問でした。でも食べ盛りの高校生は、和菓子の老舗なんて知りません。「次の人」「次の人」とクラス全員が立たされて、「鶴屋八萬ですよ。知らないんですか君たちは。」と叱られてしまいました。

新井先生の趣味は旅行です。その頃は海外旅行はまだそんなに盛んじゃなかったんだけど、世界中、日本中行っていたようです。

ある年教育実習に静岡大学の学生が来ました。彼は新井先生についています。それで国語の授業中に先生が、「下宿はどこですか」と聞きました。その実習生が答えると、「ああ、その隣の筋においしい豆腐屋がありますなあ。」とおっしゃいました。本当に日本中どこもかしもこいっているようです。

新井先生の私生活については誰も知りません。大きな学校ですから、誰かが何かを聞きつけて、少しくらい流れてくることが普通なんですが、彼は家族がいるのか独身なのか、どこに住んでいるのか、何にもわかりませんでした。今も知りません。

新井先生来るかなあ。ビデオダイアリー、無理だと思うんだけど、是非みたいですね。

ほかにも簡単に記憶に残る先生を上げると、生物の大黒先生。彼は普通の先生なんですが、真冬でも半そでです。そして冬に教室にやってくると、「君たち若いのになんですか」と窓を全部開けてしまいます。あだ名はいやみの大黒。悪い先生では全然なくて、生徒からは慕われていたのですが、この半そで主義に辟易してついたあだ名です。

高校一年のとき、クラスに中林君というラグビー部の男の子がいました。うちの高校は昨日書いたとおり私服なんですが、彼は冬になってもいつもひとりだけ半そででした。それでクラス中で、大黒先生と中林君と、どちらが先に長袖を着るか、賭けていました。結果は忘れました。

ある冬の日、クラス全員で相談して、その日の生物の授業だけ全員半そでで先生を迎えようということになりました。窓はもちろん全開です。大黒先生は入ってくるやすぐにわかったみたいで、にやりとしたのを覚えています。

高校1年のときの先生は英語の秦先生といいます。30くらいの若い先生でした。とってもいい先生なんですが、ひねくれ屋のわたしとわたしの友達には、その青春ドラマに出てくるような良い先生さがとっても嫌でした。これといってぶつかった記憶はないんですが、ちょっと態度悪かったと思います。陰口もずいぶん言いました。

でも高校1年の夏休みにはクラス合宿と称し、50人近くの15・16歳の男女を引き連れて、1泊合宿をしてくださいました。冬休みには公民館を借りてクリスマスパーティーもしました。秦先生にすればせっかくのお休みで、若かったから小さい子供もいらっしゃったように思うんですが、わざわざそんなことまでして、生徒をかわいがってくださいました。今から思えば本当に良い先生だったのに、ごめんなさい。

秦先生はお寺の息子さんでした。ほかにもお坊さんの息子という先生が何人かいました。これも不思議といえば不思議な縁でした。

高校3年のときは福井先生という世界史の先生でした。この先生とクラスについてはまた明日書きます。


まったくトーンが変わりますが詩のサイト更新しました。詩心ある方ない方、よかったら見てください。ちょっと重いです。
http://fordfarmpoems.blogspot.com/

8 件のコメント:

こんの さんのコメント...

   強く脈打つ私の手の
   温かさを感じたかったのかもしれない

二つのそれは、ソースが一つなんでしょうね
いいポエムだと思います
説明的なフレーズが少しありますよね
思い切り省略なされたら、もっと響きが増すと思われます

恩師の話 いろいろな先生がいて、さまざまな思い出が蘇りますね

Atsuko さんのコメント...

こんのさん、どのへんが説明的か、なんとなく自分でもわかります。でもまあ省略せず全部載せてみました。

「恩師」って一言ではいえないような先生が好きですね。新井先生とか、客観的に面白い先生が今でも印象が深いです。

あくあ さんのコメント...

すごいねぇ、高校の先生をそんなに覚えてるのかぁ。私は覚えてるかな、とちょっと斜め上を見てみたら・・・なんと、一人も思い出しませんでした。中学は・・・クラブ活動のときの先生くらいしか思い出せない。あと二人くらい顔が出てくるけれど名前が出てこない。小学校は思い出の担任の先生がひとりいますが、それだけだな・・・。ちなみに大学の先生はモノソワ先生くらいです。

この記憶力・・・ほんとにひどい。どうも過去のことは特に印象に残っていること以外、きれいさっぱりと忘れていくタイプのようです。

Atsuko さんのコメント...

えー、テレーシチェンコ(だったよね)先生とか田中先生、武藤先生覚えてないの?競馬中継の法橋先生は?

高校の先生はまだ高校の友達と付き合いがあるから、時々話題に出るのかなあ。それでも中学の先生も何人も覚えてるし、小学校の担任の先生も何度も転校したけど全員覚えてるよ。幼稚園の年長組みの先生の名前も覚えてる。

優秀なあくあさんなのに、面白いですね。記憶のあり方って人によってずいぶん違うんだね。

uehara さんのコメント...

すごい!
よう高校生の時の先生おぼえてはりますね!
しかも授業内容も記憶されているというのは
かなり授業に集中してはったんですね。
 法橋先生のR文学の講義はその内容は殆ど忘れましたがなぜかその抗議する先生の姿、形 しゃべり方が印象に残っています。
 
AZGOさんの住吉高校のお話で印象に残っているのがあります。確か、クラス全員で先生の発言に反対する時に「そんなバナナ!」と一斉に叫び バナナを握った手を振り上げた、と言うエピソードです。記憶違いでなければ。 ほんまにええ校風ですね。 

Atsuko さんのコメント...

上原君、わたしは法橋先生の授業記憶にないけど、ロンドン大学に申し込むときに、推薦文を書いてもらいに行ったの覚えてます。そしたら、「めんどくさいから自分で書いてくれ」といわれて、そこにサインしてもらいました。

本当に住高って楽しい校風でした。阪大にたくさん行くよりも、あのくらいでちょうど良いなあ。

ところで大阪弁って変換しにくいと思えへん?大阪弁対応のワープロってあんのかな。

ふ さんのコメント...

そういえば、日英翻訳とかネットであるでしょ?アルクとか。

ところが、どこかに確か、英語とかの外国語から大阪弁(関西弁?)に約す機能があるのも見たんですよ。もちろん、無料です。

まぁ、その時ちょっと試してみたら、へんな大阪弁だったけど・・・。

それにしても、先生のこと、本当によく覚えてますねぇ~。

私も中・高の先生のこと、結構覚えてるけど、そこまで文章で描写できるくらいには覚えてないなぁ(苦笑)。

そういえば、私たちの母校(大学)、今は統合しちゃって、別の大学になってしまいましたよね。まぁ、場所や校舎は同じですが・・・。

Atsuko さんのコメント...

ふさん、そんなものがあるんですか。でも大阪弁といっても南とか北で違うし、河内弁というのもあるし、神戸や京都はまた違うし、やっぱりなかなかうまく行かないだろうなあ。それにしてもいったい誰がそんなものを必要とするんでしょうね。

うちの子供達もだいぶ大阪弁です。really?のことをホンマ?といいます。

大学の先生、お宅の先生も覚えてますよ。ミケーレマッラ先生でしたよね。フラ語はボロ先生だったかな。