昨日友達とここから車で20分くらいのハートランドというところに海岸の散歩に行きました。海岸といってもここ北デボンは海岸線が荒々しく、ほぼ道なき道を岩沿いに歩きます。寒くなってきたのにサーファーが4人いました。友人によるとこの海岸は実は知る人ぞ知るサーフィンの伝説的なメッカで、年に何度か北斎の海の絵に出てくるような波がやってくるとかで、つわもののサーファーが水に浮かんで波を待っています。ここに来るにはわたしの歩いた海岸沿いにサーフボードを担いで何キロも岩場を歩いていくか、道なき道を車を引っかき傷だらけにしながら藪の中を抜けてくるかしかありません。
伊藤比呂美のコヨーテソングという本を読みました。前も一度読んだんですが、また読みたくなって再読しました。伊藤比呂美さんは詩人です。わたしより10歳年上で青山大学の国文科の出身です。わたしが初めて伊藤さんの詩を読んだのは大学生のとき。「わたしは便器なのか」という詩でした。タイトルのとおりかなりショッキングというか赤裸々なテーマで詩を書く人です。
その頃から彼女のことが好きだったので、あれこれ25年くらいのお付き合いになりますね。その間ずっとフォローしていたのでもないのですが、また最近になって彼女の本をいろいろ読んでます。
その頃は厳戒令下のポーランドに恋人を追いかけて行ったとかで、情熱的な人だなあと思いました。その後(多分)3回結婚して、今はアメリカ人のだんなさんがいて、カリフォルニアに住んでるようです。3人娘さんがいて、一番下の子はアメリカ人とのハーフで、日本語の勉強のために日本につれてきたりと、わたしと同じ様なことしてるようで、身につまされます。
昔は彼女の詩も一応詩らしい体裁をとっていました。韻が云々ではなく、ただ単純に詩の様に見えたということです。でも最近のものは詩なのか散文なのか、よくわからないものが多い。一応、行が段落が終わる前に途中で改行になってるから、詩なのかなあという感じです。でも内容はエッセイ風だったりします。それが何ページも続いて、急に詩のように終わったりだとか、とっても自由な書き方です。でも自由詩というのは、五七五調や韻を踏んだりという規制から外れて自由に書かれるものですから、散文長になっていようと、形式にこだわる必要なないんだから、それはそれで彼女らしくてとても好きです。
彼女は結構テーマにこだわる人なんです。昔はセイタカアワダチソウに凝っていてそれについてたくさん詩を書いてました。毛抜きで毛を抜くこと、生粋の東京弁では「ひ」がうまく発音できなくて、「し」に聞こえること(日比谷がシビヤに聞こえる)にもこだわってました。それでどうも今回はコヨーテにこだわっているようです。
昔子供のころ、シートン動物記でコヨーテのことを読んだのがきっかけでした。それを大人になってアマゾンで検索して英語の古本を手に入れました。それは図書館の本だったのですが、おそらく残酷すぎるという理由で「廃棄本」となりました。残酷というのは、母親コヨーテが授乳して仔をなめていると、そこを射殺され、子らは一匹一匹穴から引きずり出され殺されるという描写ではないかと彼女は書いています。
彼女は昔読んだ日本語訳を覚えているので、その記憶を交えながら、英語と日本語を交えながらその描写を書きます。それがなんとも心を打つんです。かわいそうはかわいそうなんですが、彼女の書き方はセンチメンタルではありません。そこが詩人の詩人たるところなんですよねえ。
その後日、(というかその前かもしれない。この辺は不明)デパートの広告でコヨーテの毛皮が特売になっているのを知り、買い求めます。たぶんこの辺は実話。その殺されたコヨーテの皮を着て、彼女はコヨーテの力を得ていきます。この辺からが詩というか、彼女らしい展開になります。
何しろ当時私は、ごく社会的に、とても家庭的に、秩序正しく生きてましたから、ええ、ただの夢でした、
ジユウニナリタイという、
ドコカニイキタイという、
ゴハンツクルノハモウイヤダという、
コシノヌケルホドセックスシタイという、
中略
コヨーテがささやき声で問いました。
「どんな力が欲しいか。」
わたしはその毛皮に鼻までうずめてイグニッションキイを入れ、
ステアリングを握りながら答えました、
「走る力を」
「死なない命とイヌ科の臭いと跳躍力を」
「それから、はてしない性欲を 」
(「平原色の死骸」より抜粋)
それとは別に、彼女がアメリカを旅して知ったコヨーテに関する伝説や民話のようなものが、これまた彼女の語り口で、詩とも散文ともつかないような書き方でかかれます。コヨーテと鴨娘の話し、コヨーテが小人の子供を腰につけた膀胱に入れて育てる話、コヨーテが人間のおんなに成りすます話し、コヨーテと魔女の話、コヨーテが蛙娘を殺す話。膀胱の話を除いては、コヨーテは好色なオスで、どれもセックスがテーマになってます。
また好きな抜粋を書きます。
平原で。
コヨーテの逃げようとした足を見ました。
罠に残されていて、食いちぎったのだと人々がいいました。
昔におこったことですから、干からびていました。
干からびた足の先。食いちぎられて。
それを見た人々が、おお、ああ、といいました、おお、ああ、と。
苦しかったろうつからったろうと。
どうせ死んでしまっただろうと。
(「風一陣」より抜粋)
或る夜コヨーテが訪ねてきて、
なくした足をわたしに見せた
どうしても食いちぎらねばならなかったのだ
どうしても出ていきたかったのだどうしても、と
行きなよ、とわたしはいってやった
コヨーテにはいろんなことをされたけれど
わたしもいろんなことをしてやった
かみ殺されなかったのが不思議なくらいだ
(「タンブルウィード」より抜粋)
伊藤比呂美のコヨーテソングという本を読みました。前も一度読んだんですが、また読みたくなって再読しました。伊藤比呂美さんは詩人です。わたしより10歳年上で青山大学の国文科の出身です。わたしが初めて伊藤さんの詩を読んだのは大学生のとき。「わたしは便器なのか」という詩でした。タイトルのとおりかなりショッキングというか赤裸々なテーマで詩を書く人です。
その頃から彼女のことが好きだったので、あれこれ25年くらいのお付き合いになりますね。その間ずっとフォローしていたのでもないのですが、また最近になって彼女の本をいろいろ読んでます。
その頃は厳戒令下のポーランドに恋人を追いかけて行ったとかで、情熱的な人だなあと思いました。その後(多分)3回結婚して、今はアメリカ人のだんなさんがいて、カリフォルニアに住んでるようです。3人娘さんがいて、一番下の子はアメリカ人とのハーフで、日本語の勉強のために日本につれてきたりと、わたしと同じ様なことしてるようで、身につまされます。
昔は彼女の詩も一応詩らしい体裁をとっていました。韻が云々ではなく、ただ単純に詩の様に見えたということです。でも最近のものは詩なのか散文なのか、よくわからないものが多い。一応、行が段落が終わる前に途中で改行になってるから、詩なのかなあという感じです。でも内容はエッセイ風だったりします。それが何ページも続いて、急に詩のように終わったりだとか、とっても自由な書き方です。でも自由詩というのは、五七五調や韻を踏んだりという規制から外れて自由に書かれるものですから、散文長になっていようと、形式にこだわる必要なないんだから、それはそれで彼女らしくてとても好きです。
彼女は結構テーマにこだわる人なんです。昔はセイタカアワダチソウに凝っていてそれについてたくさん詩を書いてました。毛抜きで毛を抜くこと、生粋の東京弁では「ひ」がうまく発音できなくて、「し」に聞こえること(日比谷がシビヤに聞こえる)にもこだわってました。それでどうも今回はコヨーテにこだわっているようです。
昔子供のころ、シートン動物記でコヨーテのことを読んだのがきっかけでした。それを大人になってアマゾンで検索して英語の古本を手に入れました。それは図書館の本だったのですが、おそらく残酷すぎるという理由で「廃棄本」となりました。残酷というのは、母親コヨーテが授乳して仔をなめていると、そこを射殺され、子らは一匹一匹穴から引きずり出され殺されるという描写ではないかと彼女は書いています。
彼女は昔読んだ日本語訳を覚えているので、その記憶を交えながら、英語と日本語を交えながらその描写を書きます。それがなんとも心を打つんです。かわいそうはかわいそうなんですが、彼女の書き方はセンチメンタルではありません。そこが詩人の詩人たるところなんですよねえ。
その後日、(というかその前かもしれない。この辺は不明)デパートの広告でコヨーテの毛皮が特売になっているのを知り、買い求めます。たぶんこの辺は実話。その殺されたコヨーテの皮を着て、彼女はコヨーテの力を得ていきます。この辺からが詩というか、彼女らしい展開になります。
何しろ当時私は、ごく社会的に、とても家庭的に、秩序正しく生きてましたから、ええ、ただの夢でした、
ジユウニナリタイという、
ドコカニイキタイという、
ゴハンツクルノハモウイヤダという、
コシノヌケルホドセックスシタイという、
中略
コヨーテがささやき声で問いました。
「どんな力が欲しいか。」
わたしはその毛皮に鼻までうずめてイグニッションキイを入れ、
ステアリングを握りながら答えました、
「走る力を」
「死なない命とイヌ科の臭いと跳躍力を」
「それから、はてしない性欲を 」
(「平原色の死骸」より抜粋)
それとは別に、彼女がアメリカを旅して知ったコヨーテに関する伝説や民話のようなものが、これまた彼女の語り口で、詩とも散文ともつかないような書き方でかかれます。コヨーテと鴨娘の話し、コヨーテが小人の子供を腰につけた膀胱に入れて育てる話、コヨーテが人間のおんなに成りすます話し、コヨーテと魔女の話、コヨーテが蛙娘を殺す話。膀胱の話を除いては、コヨーテは好色なオスで、どれもセックスがテーマになってます。
また好きな抜粋を書きます。
平原で。
コヨーテの逃げようとした足を見ました。
罠に残されていて、食いちぎったのだと人々がいいました。
昔におこったことですから、干からびていました。
干からびた足の先。食いちぎられて。
それを見た人々が、おお、ああ、といいました、おお、ああ、と。
苦しかったろうつからったろうと。
どうせ死んでしまっただろうと。
(「風一陣」より抜粋)
或る夜コヨーテが訪ねてきて、
なくした足をわたしに見せた
どうしても食いちぎらねばならなかったのだ
どうしても出ていきたかったのだどうしても、と
行きなよ、とわたしはいってやった
コヨーテにはいろんなことをされたけれど
わたしもいろんなことをしてやった
かみ殺されなかったのが不思議なくらいだ
(「タンブルウィード」より抜粋)
6 件のコメント:
詩の世界 そこは自由な天地 空想あり、願望あり、セックスあり、殺しも自由 そうなんでもありの世界
うん そういう世界でおもいきり飛翔するがいい
なんでも叶う、こんな素晴らしい世界を楽しまない手はない
詩に不可能はない こんな素敵な世界が身近にあるのがありがたい
動物も植物も言葉を語り、感情を表現する
詩は 無限大の世界
詩は 自由奔放な空間
詩に何の縁も経験もないので何なのですが、この人どんな人だろうと思って、「わたしは便器なのか 伊藤比呂美」で、グーグルしてみると、2番目にこのサイトが出てきました。
ハートランド
「心のふるさと」
コヨーテ
「歌う犬」(古代アステカ語)
どちらも意味深。
言葉は人を動かします。
こんのさん、詩って本来は、というか一昔前は結構ルールが厳しかったですよね。日本語の場合はそうでもないですが、英語の詩はすごくややこしいルールがあります。それで最近は英語でも自由詩を書く人が増えています。
ルールがあるのもゲーム感覚で楽しいですが、私は自由詩が一番良いです。こうして考えると、散文でも句読点の打ち方だとかいろいろありますが、詩の場合は何でもありですからね。
あくあさんのコメント読んで、私もグーグルしたら3番めに出てきました。こんな無責任に書いてええんかいな、と思いました。
山歩きさん、コヨーテってそういう意味があるんですか。この本の題はコヨーテソングっていいますが、伊藤比呂美さん、知っていたんでしょうね。
ハートランドは本当にこんな短いところではかけないくらいすごいところなんです。きっと山歩きさんはすごく気に入ると思いますよ。
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