メディテーションのリトリートで思ったことをちょっと書きます。
ダイニングルームにはいつでもお茶やコーヒーが入れられるような用意がしてあり、棚にはマグカップが50個以上置いてありました。そこから勝手にカップを取って、色々あるハーブティーや紅茶やコーヒーを作れるようになってます。
たくさんのマグカップは同じものがそろっているのではなく、いろんなサイズや色や柄のものがありました。それで最初の2日間ほどは、一番簡単に取れるものに手を伸ばして使ってました。
その時にふと思ったのです。子供たちが小さい頃、同じような機会があれば、絶対にわいわいいいながら好きな模様のマグカップを選んでたなって。時には取り合いの喧嘩までしてたことを思い出しました。マグカップなんてどんな模様でも味が違うわけでも無し、どうだっていいのに。あの頃の子供たちにとっては、カップを選ぶことさえ楽しい重要な事だったんですね。
そういうの、大人の人生からは消えちゃいましたね。どうでもいいようなことなんだけど、いちいちわいわい言って楽しむようなこと。別にわいわい言わなくてもいいんだけど、そんな風に、すべての機会にささやかな楽しみを見つけること。
こういうのって、マインドフルなんだと思います。
ほかの事考えながら、どれでもいいやって手近のカップに手を伸ばす。 ほかの事考えながら、適当にランチを食べる。ほかの事考えながら、いつもの決まった道路を運転する。こういうのはマインドフルの逆で、ぜんぜん今の瞬間を大切にしていない。
マインドフルとは、あらゆる瞬間が奇跡であることを知り、そのときそのときを生きること。カップひとつ選ぶにしてもきちんと選んで、おいしく味わってお茶を飲んで、丁寧にカップを洗うこと。
そうか、茶道が禅と言われるのは、こういうことなんだな。
それでリトリート後半は、いちいち吟味してカップを選んでました。やっぱりちょっとだけ楽しいですね。
こんな感じで生活 していくこと。難しいな。でもそれをしないことには、結局いつまでも同じ漠然とした不満と不安の人生から抜けられないように思います。
こつこつ丁寧に、ねじを巻くように生きていくしかありません。(村上春樹が欧米で禅と評価されるのもこのへんかも?)
ではこちらも よろしくね
イギリスランキング
3 件のコメント:
マインドフル、確かにそうですね。
しかし、最後の方の文章を読んで思いましたが、私、そんなに丁寧に生きてないけど、でも不満も不安もないよ。
そのほうが普通だと思うので、そういう人はまったく別の道で幸せになれるんじゃないかな。
私のようにちょっと普通の社会でやりにくい人は、自分なりのやり方を見つけていくというか。
あくあさん、よく考えてみたら、上に書いたのはでたらめだと自分で思い直して、返事書き直してます。
世の中の大半の人は、うまく社会と折り合いをつけてるようで、やっぱり私のように、漠然とした不安を抱いてるんじゃないかな。世の中常に移り変わって明日のこともぜんぜんわからないんだから、世の中の娯楽とかセックスの適当なことで気を紛らわすかして、なんとかやっている人が大半でしょう。それでもだめなら、スピリットとかそんな系のものに引かれていくのでは。
あくあさんのような人の方が珍しいのでは。ヒンズー教の哲学では、そういうのはカーマ・ヨガと呼ばれる尊い生き方とされています。仕事などによる社会との関わりで世の中に奉仕することによって、輪廻からの解脱を得る道。
コメントを投稿