何回か書きましたが、ここ北デボンはイギリスの中ではサーフィンのメッカで、よその土地からそのためにこしてきた人などもいます。それでルイは夏には学校で1週間サーフィンのレッスンがありました。
もう二回も今年はこれで海納めだろうと思ったのですが、今週もまずまずの天気で、しかも波がよかったので、昨日も学校のあとに海に行きました。サーフィンではなくボディーボード。ルイは本当は本格的なサーフィンをしたいんですが、ここの海はすごく遠浅で、肩まで海に漬かるまでにはずいぶん沖に出て、岸から見えないくらいの波のむこうに出て行かなければいけません。それで今はボディーボートを持って私も一緒に海に入ります。ボディーボードは私も楽しいので、一緒にするのは好きなんだけど、本格的なサーフィンまで付き合って海に入ってられないので、それは中学に入るまでお預けです。
私は子供たち、特にルイにはサーファーになって欲しいなあと思っていたんです。彼らっていつ見てもリラックスしてて楽しそうで、仲間内の結束も固そうで、幸せそうで良いなあって。それにせっかくこの北デボンに住んでるんだし、サーフィンをせっせとすれば、こういった娯楽の少ない田舎でありがちなドラッグの問題だとか、毎週末パブでのみまくって、酔っぱらって問題を起こすとか、バイクや車にこって事故るとかもいうこともないんじゃないかなって。
昨日海に行ったのは、学校が終わってからなので、4時20分くらいでした。夏の間はここは入り口に小屋があって、入場料(駐車代)3ポンド取られるのですが、9月末ということもあって、もう小屋は今年は閉まっていました。
私たちがつく頃、どこかの学校の団体のサーフィンレッスンが終わったところでした。彼らのほかにも引き上げていく車が数台で、駐車してあるのは5台くらい。一番良いところに止められました。天気もまあよくて、波も良いのに、ああ、すっかり夏も終わったなあという感じでした。
浜に出ると、それでもまだ律儀にライフガードのバンが海を見張っていました。その車の近くで海に入ると、私たち以外に3人くらい大人の男性がボディーボードやサーフィンをしていました。ついこの間までは家族連れや子供たちがいたのに。平日だから、もう子供は地元の子も来ないんだろうなあ。
それでも私たちが上がる5時半頃に、ぽつぽつとサーファーが来ていました。年は30代くらいが中心かな。ぴちぴちした若者たちという感じではありません。そんな人たちがそれぞれ一人でやってきて、顔見知りのサーファーに挨拶したりしても、それでもそれぞれ別々に、日が傾いてきた海でサーフィンしていました。
デイブの仕事先にもサーフィン目当てでこの土地に越してきた人がいます。30歳位かな。彼は昨日は朝の5時に海に行ってサーフィンをしてから仕事に来たそうです。彼は去年のクリスマス前後も、すごく良い波が続いた頃、朝早く働きに来て、昼休みにサーフィンして夜は残業していました。その頃は地元の人だけでなく、かなりあちこちからサーファーが集まってきたようです。
12月の暗くて冷たい海に肩まで漬かって、じっと水平線の彼方を見やりながら、息を詰めるようにして良い波が来るのを待っていたんだろうなあ。
そんなことを考えると、サーフィンって私がイメージしていたような、楽しくてさわやかで軟派な娯楽ではないんだなあという気がしてきました。ハワイやカリフォルニアならともかく、波さえよければこういうところで凍えるような冷たい海に、季節や天気を問わず漬かって。そしてただひたすら良い波がやってくるのを待つ。別にそれによって、何も良いことにつながるわけでもないのに、ただ数秒間波に乗るために。
それってちょっと禅に通じるものがあるような気もします。そして、ただ波の先頭に立って海をスピードをつけて横切っていくその喜びのためだけにサーフィンに情熱を傾けるのって、まるで人生の生き方そのもののお手本のような気もしてきました。
昨日すっかり冷え切って海から上がり、砂浜を歩きながら海のほうを振り返ると、太陽が海のに傾きかけ、息をのむほどきれいでした。海の中にはまだ一人サーファーがじっと波を待っていました。そしてライフガードのバンには、ライフガードのお兄さんが双眼鏡を手に彼を見守っていたんだろうなあ。
それを見ていると、「ああ、世はすべてこともなし」という幸福感が心に広がって行きました。この景色を心に刻み込んでおきさえすれば、どんなに嫌なことがあっても悲しいことがあっても、やっていけるんじゃないかと思ったくらい、感動しました。
この海の写真をリクエストしてくれた人がいましたが、この景色は広角レンズでもだめなんじゃないかなあ。言葉でも写真でも伝えきれない、自分の目で見るしかない感動というものもあるんですよね。
6 件のコメント:
臨場感 というか、現場にいた者でなければ分からない感動というのがありますね
いくら上手く写真を撮ったといっても、それはその臨場感からは遠く、写真(二次元)は現実を超えることはできない
それを承知しながら、それでもカメラを向ける。それしかないから... 言葉も音楽も絵もあるけれど、私は写真で表現しようとする
あくあさん 今日のブログも(いいなぁ)です
(大きな拍手!!)
サーフィンも自然を感じる、楽しむってことですかね。
心静かに波を待つサーファーと禅、なかなか面白い。
喧騒をはなれひとりなにもしない時間があるというのは、自分をみつめることができますから、そうかもしれません。
それは、(次のいつもの台詞をいうのはやめよう)
なんだかんだで写真はおあずけ(笑)なのですね。こうなったら、自分で見に行くしかないか。
こんのさん、あくあさんじゃなくて、あつこさんですよ!
なんか情景が浮かぶようですね。私も海が大好きなので、その景色には憧れます。昔、老後はそういう浜辺に庭がつながっているようなところに住んで、海に沈む夕陽を眺めたいと思っていたんだけれど、最近は彼が那須に住みたいと言っているので、海はお預けかもしれません。
それにしても、ここのところ忙しすぎて、そういう感動を味わう暇も心の余裕もなく、嘆かわしいですよ・・・。
明日、ロンドンに行きます。
こんのさん、臨場感。そう、それです。写真にしても言葉にしても、視覚だけとか頭だけとかでは、あの全身体的な総合的な感動は伝わってこないんですよね。
詩を書くのも、写真と似てるかな。とどめておくことのできない、過ぎ去っていくものの、何とかその瞬間を捉えようとする努力。
このブログも長々と言葉が多くなって、うまく感動が伝わらなかったんじゃないかと思ったんですが、そういっていただいて嬉しいです。
山歩きさん、サーファー、サーフィンって言えばファッションが先行して、長髪のちゃらちゃらした若者がさんさんと輝く太陽の元でするというイメージですが、実はハードコアのサーファーはそうじゃないんだなあって思いました。外見も日と潮風にさらされて、髪の毛もぼさぼさで、修行僧のような人も多いですよ。一人で海に浸かって、良い波の来る一瞬を逃さないで、集中して波のかなたを見つめるのは、やっぱり禅的です。
同じく一人で山に登り、自然を見つめることは、自分を見つめることにつながる。と、こんな感じで良いでしょうか。
この辺家族で泊まれるるようなコッテージとかホリデーホームも多いですから、そういうところも良いんじゃないかなあ。ぜひこの機会にきてくださいよ。良いとこ知ってます。
あくあさん、良いですね。でもあまり海に面していると、家の傷みが早いのでは。しけのときは心配だし。道1本隔てたくらいにしておけば?
海の位置によっては、朝日は見れるけど夕日は見れないところもあるということを、山歩きさんに指摘されました。その辺もよく考えて、引き寄せの法則て引き寄せてください。彼もあくあさんもどちらも満足できるような家をね。
ロンドンか、うらやましいなあ。わたしもいきたいよ!
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