2009年10月9日金曜日

携帯メール


ルイは今日学校で午後ハイキングの練習(?)で海まで往復して8キロ歩きました(2時間半)。そのあと家に帰ってきて、今度は水泳のトレーニングで1時間泳ぎました。明日は朝9時からテニスがあり、そのあと午後は車で2時間弱のエクセターに行って水泳の競技会です。ルイちゃんってもうすぐ11歳なんですが、たくましくなってくれたものです。

ちなみにおととい学校で体脂肪と筋肉を計ったそうです。体脂肪はなんと5パーセント。筋肉は33パーセント。うらやましい人はわたしだけではないでしょう。でももうちょっと脂肪がないと、サーフィンするとき寒いよ。

今年の夏日本に5週間行く前に、最近は公衆電話もなさそうだから携帯がないと不便だろうと、妹に手配してくれるように頼みました。するとちょうど彼女は母に携帯を買ってあげようと思っていたところということで、母のを夏の間借りることになりました。

妹がその携帯を手に入れたのは、わたしが日本に行く1週間くらい前でした。それでためしに何度か母がメールを送ってきましたが、何も書いていなかったりとなかなか覚えられない様子でした。うちの母は74歳。コンピュータもだめなどころか、運転もビデオの録画もできないタイプです。テレビと電子レンジがかろうじて使える程度。

7月に日本に行ってその携帯を早速借り、わたしも妹に使い方を教えてもらいました。電話とカメラは問題ないですが、問題はメール。イギリスでは携帯メールはあまり使われておらず、SMS テキストを送ります。もちろん英語。それで携帯でのメールの打ち方を教えてもらいましたが、これがなかなか難しい。初めて書いたメールはたった数行なのに30分くらいかかってしまいました。

それでも何回か使ううちにこつがわかってきて、すぐに覚えました。日本を去る頃は、普通の人よりちょっと遅いくらいまで上達していたと思います。写真を撮ったりメールで送ったりするのも問題なしでした。

日本で友たちと話していると、母と同世代の友達のお母さんたちも結構携帯メールは活用しているようです。友人MOのお母さんは、長文メールも早く打てるらしい。別の友人MYのお母さんはもう80歳になるのですが、メールにはまってメル友もいるそうです。隣の家に住んでるのに、用事のあるたびにメールを打ってきて、返事が遅れるとおこるとか。ちなみにこのお母さんは足が不自由だとかそんなのじゃありません。今でもゴルフコンペに行くそうです。

そのことをうちの母に話すと、「そんなのわたしは無理」とのこと。彼女は旅行に行ったり出かけたりというのは結構好きそうですが、家でもテレビも見ないし夜10時ごろ電話したら寝てるし、もっと興味を広げないと老化が進むのではと内心ちょっと心配していました。妹も、「せっかく買ってあげたのに」と言います。それでわたしがイギリスに帰るとき、こっちからメールを出して興味を持たせてくれと頼まれました。

それでこっちに帰ってきてからはほぼ毎日のようにメールを送るようになりました。わたしはPCでタイプしますから、数行のことですのですごく早い。2分くらいの所要時間です。すると母は何とか返事を書いてきました。最初はすごく短文。メールありがとう、とかそれくらいです。それも妹に言わせたら、1時間くらいかけて書いているとのこと。

でもそれも1週間ほどのことで、しばらくすると、まあまあ長いメールだとか、ちゃんと用件のあるメールが来るようになりました。ふーん、やっぱりうちの母のようなまったくメカ音痴の人でも、ちょっと練習すればできるようになるんですね。

それで今週母から小包が届いたんですが、そこに同封してあった手紙に、「いつもメールの相手してくれてありがとう。毎日楽しみが増えて、世界が広がりました。MY さんのお母さんの気持ちがわかります。」と書いてありました。へーえ、たった数週間で、ころりとメール好きになったんだね。まあこれで彼女も楽しみが増えただけでなく、携帯メールからPCメールに広がったりと世界が広がるということもあるし、よかったよかった。妙なところで親孝行ができました。

デイブのおとうさんも母と同じ年なんですが、彼はもうすっかりPCにはまっています。メールはよく来るし、その上昔とったスライドをデジタルに転換する機械を買い、デイブの子供時代の写真をCDにして郵送してくれるなど、私たちでも知らないようなことをやっています。

コンピューターやデジタルテクノロジーって若い人のものというイメージですけれど、お年寄りのほうが時間があるし、結構はまっている人は多いのではないでしょうか。わたしですらしょっちゅうのように、こんなことができるなんて良い時代になったものだと思うことが多い。だからわたしの母の年代の人なんて、本当に世界が開けるというか、驚くことが多いでしょうねえ。

ちょっと前に読んだ記事なんですが、アメリカで100歳以上の人にアンケートをして長寿の秘訣を探ろうとしたところ、食べ物やライフスタイルには特にこれといって決定的な要素は見つからなかったそうです。でもそのうちの50パーセントくらいの人が、MP3プレーヤーで音楽を聞いたことがあるんですって!私ですらMP3プレーヤー使ったことないのに。これって、長生きする人は新しいことに貪欲に挑戦してるということでしょうね。

アブラハムの教えによると、人間は生きようとする意欲のなくなったときに死ぬとのこと。新しいことにどんどん興味を持って、意欲的な人は長生きするってことでしょう。

ちなみに昨日母にメールで写真を送ったところ、届かなかったそうです。それから彼女も送ってきましたが、つきませんでした。わたしがあの携帯を使って自分に写真送れたから、遅れないということはないんだけど、母にはまだ無理なようです。まあぼちぼちやりましょう。

写真はことしうちでできた5種類のりんご。

2009年10月8日木曜日

読書感想文 コヨーテソング




昨日友達とここから車で20分くらいのハートランドというところに海岸の散歩に行きました。海岸といってもここ北デボンは海岸線が荒々しく、ほぼ道なき道を岩沿いに歩きます。寒くなってきたのにサーファーが4人いました。友人によるとこの海岸は実は知る人ぞ知るサーフィンの伝説的なメッカで、年に何度か北斎の海の絵に出てくるような波がやってくるとかで、つわもののサーファーが水に浮かんで波を待っています。ここに来るにはわたしの歩いた海岸沿いにサーフボードを担いで何キロも岩場を歩いていくか、道なき道を車を引っかき傷だらけにしながら藪の中を抜けてくるかしかありません。

伊藤比呂美のコヨーテソングという本を読みました。前も一度読んだんですが、また読みたくなって再読しました。伊藤比呂美さんは詩人です。わたしより10歳年上で青山大学の国文科の出身です。わたしが初めて伊藤さんの詩を読んだのは大学生のとき。「わたしは便器なのか」という詩でした。タイトルのとおりかなりショッキングというか赤裸々なテーマで詩を書く人です。

その頃から彼女のことが好きだったので、あれこれ25年くらいのお付き合いになりますね。その間ずっとフォローしていたのでもないのですが、また最近になって彼女の本をいろいろ読んでます。

その頃は厳戒令下のポーランドに恋人を追いかけて行ったとかで、情熱的な人だなあと思いました。その後(多分)3回結婚して、今はアメリカ人のだんなさんがいて、カリフォルニアに住んでるようです。3人娘さんがいて、一番下の子はアメリカ人とのハーフで、日本語の勉強のために日本につれてきたりと、わたしと同じ様なことしてるようで、身につまされます。

昔は彼女の詩も一応詩らしい体裁をとっていました。韻が云々ではなく、ただ単純に詩の様に見えたということです。でも最近のものは詩なのか散文なのか、よくわからないものが多い。一応、行が段落が終わる前に途中で改行になってるから、詩なのかなあという感じです。でも内容はエッセイ風だったりします。それが何ページも続いて、急に詩のように終わったりだとか、とっても自由な書き方です。でも自由詩というのは、五七五調や韻を踏んだりという規制から外れて自由に書かれるものですから、散文長になっていようと、形式にこだわる必要なないんだから、それはそれで彼女らしくてとても好きです。

彼女は結構テーマにこだわる人なんです。昔はセイタカアワダチソウに凝っていてそれについてたくさん詩を書いてました。毛抜きで毛を抜くこと、生粋の東京弁では「ひ」がうまく発音できなくて、「し」に聞こえること(日比谷がシビヤに聞こえる)にもこだわってました。それでどうも今回はコヨーテにこだわっているようです。

昔子供のころ、シートン動物記でコヨーテのことを読んだのがきっかけでした。それを大人になってアマゾンで検索して英語の古本を手に入れました。それは図書館の本だったのですが、おそらく残酷すぎるという理由で「廃棄本」となりました。残酷というのは、母親コヨーテが授乳して仔をなめていると、そこを射殺され、子らは一匹一匹穴から引きずり出され殺されるという描写ではないかと彼女は書いています。

彼女は昔読んだ日本語訳を覚えているので、その記憶を交えながら、英語と日本語を交えながらその描写を書きます。それがなんとも心を打つんです。かわいそうはかわいそうなんですが、彼女の書き方はセンチメンタルではありません。そこが詩人の詩人たるところなんですよねえ。

その後日、(というかその前かもしれない。この辺は不明)デパートの広告でコヨーテの毛皮が特売になっているのを知り、買い求めます。たぶんこの辺は実話。その殺されたコヨーテの皮を着て、彼女はコヨーテの力を得ていきます。この辺からが詩というか、彼女らしい展開になります。

何しろ当時私は、ごく社会的に、とても家庭的に、秩序正しく生きてましたから、ええ、ただの夢でした、
ジユウニナリタイという、
ドコカニイキタイという、
ゴハンツクルノハモウイヤダという、
コシノヌケルホドセックスシタイという、

中略

コヨーテがささやき声で問いました。
「どんな力が欲しいか。」
わたしはその毛皮に鼻までうずめてイグニッションキイを入れ、
ステアリングを握りながら答えました、
「走る力を」
「死なない命とイヌ科の臭いと跳躍力を」
「それから、はてしない性欲を 」

(「平原色の死骸」より抜粋)


それとは別に、彼女がアメリカを旅して知ったコヨーテに関する伝説や民話のようなものが、これまた彼女の語り口で、詩とも散文ともつかないような書き方でかかれます。コヨーテと鴨娘の話し、コヨーテが小人の子供を腰につけた膀胱に入れて育てる話、コヨーテが人間のおんなに成りすます話し、コヨーテと魔女の話、コヨーテが蛙娘を殺す話。膀胱の話を除いては、コヨーテは好色なオスで、どれもセックスがテーマになってます。

また好きな抜粋を書きます。

平原で。
コヨーテの逃げようとした足を見ました。
罠に残されていて、食いちぎったのだと人々がいいました。
昔におこったことですから、干からびていました。
干からびた足の先。食いちぎられて。
それを見た人々が、おお、ああ、といいました、おお、ああ、と。
苦しかったろうつからったろうと。
どうせ死んでしまっただろうと。

(「風一陣」より抜粋)

或る夜コヨーテが訪ねてきて、
なくした足をわたしに見せた
どうしても食いちぎらねばならなかったのだ
どうしても出ていきたかったのだどうしても、と
行きなよ、とわたしはいってやった
コヨーテにはいろんなことをされたけれど
わたしもいろんなことをしてやった
かみ殺されなかったのが不思議なくらいだ

(「タンブルウィード」より抜粋)

2009年10月7日水曜日

福井先生とサンプルマン

高校3年のときのクラスは福井先生という世界史の先生でした。歳は40才くらいかなあ。ぜんぜん先生らしい高圧的なところのない人で、みんなに好かれていました。それでも担任としては進路指導などちゃんとしてくれたし、世界史の授業も面白かったです。生徒の前でぜんぜんえらそうにしないのだけど、やっぱり高校生の私たちとは歳も離れているし、青春ドラマの先生風でもなく、さらっとした自然体の人でした。

生徒の誰かが、「先生見合い結婚?恋愛結婚?」と聞くと、「見合いや。見合いで恋愛や」としゃあしゃあと答えていました。それから学校の創立60年だかなんかの式典のときに、先生が君が代を歌っていなかったので、誰かがそれとなく尋ねると、「いやー、僕は君が代は嫌いやねん。」とさらりとおっしゃっていたのを覚えています。君が代、国旗問題はその頃よく話題になっていたので、あのこだわりのなさそうな先生にそんな面があるとは以外でした。

先生が良いと、クラスが仲良くなって楽しくなる傾向があるように思います。この高3のときのクラスって47人いたのですが、すごく仲がよかった。

皆さんも覚えがあるかもしれませんが、中学高校のときって日直というものが回ってきました。具体的に何をしたか覚えていないんですが、結構めんどくさかった。花瓶の水を替えたり鍵をとりに行ったり、そういうことかな。その日直の仕事のひとつが日直日誌をつけることでした。内容は欠席者だとか遅刻者だとか、そういう事務的なことです。1日1ページの日誌にはほかにもいろいろ記入する項目があったと思うのですが、その最後に小さく「その他」のセクションがあって、コメントを記入できるようになっていました。普通は誰も何も書きません。

それがいつの頃からか、そのコメントにみんながいろいろなことを書き始めたのです。大体その日にあった面白いこと。それを福井先生は終業時間に読み上げてくれました。それでなんとなくみんな日直になってそこに書き込みできるのが楽しみになりました。

それがきっかけになったのかもしれませんが、高校3年の半ばからはクラス全員で交換日記まで始めました。何しろ47人もいるから、普通にしていたら2ヶ月に1回くらいしか回ってこないので、誰かが家にもって帰って、翌日は休憩時間やランチタイムに読んだり書いたりしていたと思います。お互いの日記に書き込みも多く、まるで今のブログみたい。

まああんな高校でも一応3年になると受験体制で、旅行や合宿なんかはなかったけど、たまにクラスでボーリングに行ったりしたのも覚えています。大きな声ではいえないが、飲みにも行きましたよ。

ああ、なんか書いてるうちに懐かしくなってきた。福井先生は同窓会出席とのことです。あの頃40としても65歳か。そりゃわたしが44だからそうでしょう。こちらが驚くよりも、先生の方があのぴちぴちした高校生がオッサンオバハンになって、驚くだろうなあ。

もう一人思い出に残る先生がいます。高校一年のときの地学の先生で、名前は忘れたんだけどサンプルマン(よく授業に岩のサンプルを持ってきた)というあだ名でした。とっても穏やかな人で良い先生だったんですが、ある日授業中に何かが起こって、めずらしくその先生がきつく誰かを叱ったことがありました。そういうことは中高生というのは慣れていますから、別に誰もなんとも思わなかったのですが、その日の終業時間(ホームルームといいましたね)に私たちのクラスにわざわざいらっしゃって、「大きな声でしかって申し訳ありませんでした」とクラス全体に頭を下げて謝られました。

たった15歳くらいの悪ふざけの盛んな高校生に対して、わざわざ出向いていって頭を下げるなんて、なんて立派な先生だろうとそのときも思いましたし、今わたしがそのくらいの歳になって、余計そう思います。でも私たち住高生も、進学率は下がったものの、きちんと礼儀をわかったまともな大人の高校生だったから、先生方もそんな風に扱ってくださったんだろうと思います。

こうして思うと、本当にわたしって幸せな高校生時代を送りました。一応進学校だけど、それほど受験受験と追い詰められることもなかったし、先生方は、全員ではないにしろ、面白い 良い先生が多かったし。そして友達もクラスもクラブもすごく仲がよくて楽しかったし、面白い人たちがたくさんいたし。

阪大に誰も行かなくなっても、国公立が一握りでも、一浪で私学が普通でも、そんなことこんなのびのびした高校生活には変えられない事です。

2009年10月6日火曜日

新井先生、大黒先生、秦先生

昨日の続きの高校の同窓会の事を書きます。

同窓会のブログヲ見ていたら、お世話になった先生方の出欠の予定が書いてありました。まだ未定の先生が多いです。そのうちで、新井先生だけ太文字になっていました。出欠はまだ未定。ですがその下に実行委員からたっての希望で、ビデオダイアリーをお願いするとのことでした。

新井先生は国語の先生です。多分その頃で50歳はいっていたから、もう75歳以上だと思います。私は現国も古典も習いました。新井先生のことを説明するのはとっても難しいです。悪い先生では決してありませんが、良い先生とも簡単にはいえない。なんというか、そういう枠の中に入らない人なんです。容貌はちょっとゲゲゲの鬼太郎のこなき爺のような感じです。「新井すまし」というあだ名もありました。なんともとらえどころがないからそう呼ばれたんでしょうか。

さすがに古典の授業の方は新井先生でもまあまあ普通にカリキュラムどおりになってました。外国語のように覚えないといけないことが多いから、仕方なかったんでしょうね。授業の形式は質問をして、「じゃあ次の人」と席順で当てられます。わからないと立たされて、「次の人」「次の人」と順番が廻っていきます。そして正解が出ると、立ってる人もみんな座れます。ただそれだけです。別にこれといって教えようとか、受験に備えさせようなんて気持ちは微塵もなかったと思います。

でも新井先生の醍醐味は現国。教科書に載っているテキスト(大体文学作品からの抜粋で、20ぺーじくらいかな)を順番に当てていって一度音読すると、それでおしまい。そのあとは先生がまたはじめから読みながら、同じ調子で質問して当てていきます。でも現国なので特に難しい読解も文法もないので、ただ先生が思いつくままに質問していくんです。ちょうどブログを読んで、コメントしていくような感じです。

一度は「日本で一番おいしい最中はなんですか」という質問でした。でも食べ盛りの高校生は、和菓子の老舗なんて知りません。「次の人」「次の人」とクラス全員が立たされて、「鶴屋八萬ですよ。知らないんですか君たちは。」と叱られてしまいました。

新井先生の趣味は旅行です。その頃は海外旅行はまだそんなに盛んじゃなかったんだけど、世界中、日本中行っていたようです。

ある年教育実習に静岡大学の学生が来ました。彼は新井先生についています。それで国語の授業中に先生が、「下宿はどこですか」と聞きました。その実習生が答えると、「ああ、その隣の筋においしい豆腐屋がありますなあ。」とおっしゃいました。本当に日本中どこもかしもこいっているようです。

新井先生の私生活については誰も知りません。大きな学校ですから、誰かが何かを聞きつけて、少しくらい流れてくることが普通なんですが、彼は家族がいるのか独身なのか、どこに住んでいるのか、何にもわかりませんでした。今も知りません。

新井先生来るかなあ。ビデオダイアリー、無理だと思うんだけど、是非みたいですね。

ほかにも簡単に記憶に残る先生を上げると、生物の大黒先生。彼は普通の先生なんですが、真冬でも半そでです。そして冬に教室にやってくると、「君たち若いのになんですか」と窓を全部開けてしまいます。あだ名はいやみの大黒。悪い先生では全然なくて、生徒からは慕われていたのですが、この半そで主義に辟易してついたあだ名です。

高校一年のとき、クラスに中林君というラグビー部の男の子がいました。うちの高校は昨日書いたとおり私服なんですが、彼は冬になってもいつもひとりだけ半そででした。それでクラス中で、大黒先生と中林君と、どちらが先に長袖を着るか、賭けていました。結果は忘れました。

ある冬の日、クラス全員で相談して、その日の生物の授業だけ全員半そでで先生を迎えようということになりました。窓はもちろん全開です。大黒先生は入ってくるやすぐにわかったみたいで、にやりとしたのを覚えています。

高校1年のときの先生は英語の秦先生といいます。30くらいの若い先生でした。とってもいい先生なんですが、ひねくれ屋のわたしとわたしの友達には、その青春ドラマに出てくるような良い先生さがとっても嫌でした。これといってぶつかった記憶はないんですが、ちょっと態度悪かったと思います。陰口もずいぶん言いました。

でも高校1年の夏休みにはクラス合宿と称し、50人近くの15・16歳の男女を引き連れて、1泊合宿をしてくださいました。冬休みには公民館を借りてクリスマスパーティーもしました。秦先生にすればせっかくのお休みで、若かったから小さい子供もいらっしゃったように思うんですが、わざわざそんなことまでして、生徒をかわいがってくださいました。今から思えば本当に良い先生だったのに、ごめんなさい。

秦先生はお寺の息子さんでした。ほかにもお坊さんの息子という先生が何人かいました。これも不思議といえば不思議な縁でした。

高校3年のときは福井先生という世界史の先生でした。この先生とクラスについてはまた明日書きます。


まったくトーンが変わりますが詩のサイト更新しました。詩心ある方ない方、よかったら見てください。ちょっと重いです。
http://fordfarmpoems.blogspot.com/

2009年10月5日月曜日

なつかしの住吉高校


今年11月に高校の35期生の同窓会があるとのことで、夏に実家に連絡がありました。そのあとおとといはこちらまで出欠確認の電話がかかってきました。ちゃんとわたしから返事しておけば手数がかからなかったのに、ごめんなさい。そしてありがとうございます。うちの高校って一学年500人以上いるんです。だから本当に大掛かりな仕事のようです。150人出席を目指してるんだって。4人に一人。多いのか少ないのか。でももう25年以上もたってるから、150人でもすごいかもしれません。

高校の名前は大阪府立住吉高校。大阪や関西圏では名門として名前の知れた学校です。でもそれがなぜなのか、私たちの年代の元生徒には不明なんです。一応進学校ではありますが、わたしが卒業する頃には、現役で国立大学に行く人なんて一握りという体たらく。大阪府は高校は学区制になっていて、母校のある第六学区には10校近く公立高校があったのですが、その中でも2番手の学校です。だから大人になって、たまに関西出身の人から、住校ですか、名門ですね、なんていわれると、「???」という感じです。

住吉という名前が百人一首の中でも読まれているくらい由緒ある土地なのと、住吉大社で知られているのかもしれません。あと学校が帝塚山というところにあるんですが、これが高級住宅地なのでそれも関係あるのかも。

詩人の伊藤静雄(日本を代表する詩人ですが、たぶん普通の人は知らないだろうなあ)が教鞭をとっていたことで知られています。それからこれは偶然、作家庄野潤三の文学交遊録という本を読んでいたら、彼も住吉高校(その頃は中学)出身で、しかも大学もわたしと同じの大阪外大と知ってちょっと驚きました。彼は伊藤先生にそれはそれはお世話になったそうです。その辺の時代の文学交友記、わたしはすごく興味あるのですが、その辺にもいまだにこの高校が名門と思われている(誤解されている)ゆえんかもしれません。

ちなみにわたしは知りませんでしたが、最近ノーベル賞を受賞された下村脩さんも住吉高校の出身で、しかも伊藤静雄の教え子だったとか。なんというか、立派な人は立派な人を呼ぶものですなあ。引き寄せの法則です。

わたしが高校にいた頃は、「自主自律」が学校のモットーでした。こういうのを掲げるのは良いけれど、普通はモットーというのはなかなか実行されないものですが、この学校は本当に実行してました。制服なし。校歌なし。髪の毛はパーマも毛染めも自由。ハイヒールも大丈夫。化粧はたぶんだめだったと思うけど。先生と生徒の関係も、大人の関係というか、支配者被支配者という感じはまったくなく、大学のような感じでした。今から思えば、こんな高校の先生って楽だろうなあ。
校歌はない変わりに、生徒歌というのがありました。じゃあ同じじゃんと思うでしょうが、やっぱりちょっと違うんです。みんな嬉々として歌うんです。たぶん今度の同窓会でも歌われるんじゃないかな。押し付けられるのと押し付けられないのとではこうも違うんだなといういい例です。

わたしの中学は、何かあると「内申に書くぞ」と脅す先生が大半の、軍隊のような中学でした。制服も厳しく、ソックスと靴は完全な白。かばんは学生かばんプラス学校のマークの入ったリュックサックのみ可。男子が坊主頭にしなくてもよかったのが奇跡のようなところでした。そんなところから、こんな自由なのびのびした高校にいったから、本当に楽しかったです。

勉強のほうは一応進学校ではあったのですが、のびのびしすぎて今ひとつでした。女子は大体現役で短大や四大に言ってましたが、男子は一浪が普通でした。わたしの卒業年度の生徒は、一浪から関西学院というルートが一番多かった。その数年前は一浪から大阪市立大学だったんだけど。

2年ほど前に、妹が(彼女も同じ高校)「住高は普通科がなくなった。」といったので、目の前が真っ暗になりました。そうか、そんなにレベルが下がってしまったのか、商業科か、工業化か、と思っていたら、国際科だとかいうことでした。うーん。これは良いことなのか悪いことなのか。文系の高校になったのかなあ。

とにかく、今回の同窓会は結構盛り上がって、ブログまでできて、気合が入ってるようです。ブログを見てみると、実行委員会には知ってる人は一人しかいませんでした。いくら25年たってるとはいえ、一度でも同じクラスになった人は覚えてると思うんだけど。忘れたってことはないと思うので、やっぱり大きな高校ですから(12クラスあった)、もともと知らない人が多かったのかなあ。
当日はスライドショーやらゲームやらいろいろ催しが企画されているようです。それは良いんだけど、そのうちのひとつ、「住高カップルのその後」というのが気になる。何組が同窓生どうしで結婚したか、ということらしいんですが、私たちくらいの年でそんなことしても良いのかなあ。幸せに結婚してるカップルだけではなく、離婚したり、離婚を考えていたり、という人たちも多いと思うんだけど。まあそんな能天気な企画をするのが、わたしの高校らしいんですけど。

この同窓会8年ぶりとのこと。前回声がかかった記憶はないのですが、多分その頃はチャーリーが生まれたばかりで、毎日睡眠時間2時間だったから、とてもそれどころではなかったんでしょう。今年の夏に行ったところでなければ、いってみたいなあと思うんだけど、やっぱり無理ですね。次に日本に帰ったときは自分で音頭をとって、クラス会をやろうと思ってます。

今ちょっとウィキピディアを調べてみたら、かなりいろいろ載っていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E7%AB%8B%E4%BD%8F%E5%90%89%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1

昔は阪大の入学者の中では、住吉高校出身者が一番多かったとか、今では低迷も激しく、80年代には(わたしのいた頃)「他の学区なら3.4番手」といわれるほど実績が下がったとか。それから卒業生がいろいろ載ってました。漫才師のトミーズ雅、健も卒業生でした。

2009年10月4日日曜日

おさんどん

今日は久しぶりに子供の習い事も試合もない日曜でした。天気は晴れ。でも秋晴れという感じではなくて、どよんとしています。風がなくて空気が重い感じ。気温はまあまあ温かい。

このくらいの季節が美しくて良いという人もいます。確かに陽はやわらかいし、まだ草も青々としていて、木々もまだ緑であふれています。花はもう終わってしまったのでそれは寂しいけど、それでも庭には果物や木の赤い実が実り、まだまだ見どころはあります。

でもわたしはあんまり好きではありませんね。これから本格的に天候が悪くなる前の、ほんのつかの間の平和と言う感じで。もう海は入るどころか、見に行こうという気もしません。秋は寂しいなあという感じがしみじみします。

今日のランチはローストポーク。ランチといってもこれはディナーですから、食べたのは2時半くらい。これがオーブンに入れる前。

こちらが出来上がり。

付け合わせは人参、ブロッコリー、ローストパースニップ、ローストポテト、アップルソース。デザートがアップル・クランブルのカスタードソースかけ。

パースニップというのはイギリスの冬の野菜で、今日庭で育ったのを今年初めてとりました。こんな風にきれいに育ちました。味は人参とサツマイモを足したような味です。にが甘いというか。

パースニップはきれいに育ちますが、同じ根菜の大根はこんな風になりました。どうしても虫に食われてしまうんです。それでも痛んだところを切り捨てて、貴重な日本野菜、ありがたく食べます。

もう完全な秋ですが、野菜畑にはまだまだ食べれるものが残っています。冬の野菜としてはこのパースニップのほかに、長ネギとカボチャが育ってます。人参、ビートルート(ボルシチの材料)、ほうれん草、ケール(青菜)、コルラビ、大根、キャベツなど。春に採るブロッコリ-もあります。果樹園のほうは梨とりんごがそろそろ最後の収穫のときです。

でも正直言って、寒くなると外に行くのが面倒になるし、ましてや雨が降ってると、野菜を採りに行こうなんて思いません。雨が続いてどろだらけになると、根菜を採るのがすごく大仕事で、これも嫌です。店で買う野菜ってもう洗ってあってきれいで捨てるところが少なくて、本当にありがたいなあと思ったりしてしまいます。

わたしって実は家事の中では料理は結構嫌い。面倒くさいんです。毎日しなきゃいけないし、後片付けが大変だし。といってももう子供が生まれて11年にもなるし、毎日作ってるからだいぶ上達して、苦手ではないんだけど、お料理上手なんかでは決してありません。

でもこの週末はずっと割烹着着て台所に立ってました。梨とりんごのチャツネというピクルスのようなものを大量に作ってたんです。水曜は昼間はまたジャムを作っていたし。おさんどんではなく、お菓子を作ったりこういうのは嫌いではないんですけど、庭でできる野菜や果物を無駄にするわけにも行かないからと作っているわけで、趣味というよりは仕事という感じがします。まあどんな趣味でも、高じてくると仕事的面も出て来るんだろうけど。

チャツネを作ると酢を大量に使うので家中が酢のにおいがします。今日はそこにローストポークのにおいまで混じってます。家がオープンプランで、台所と今の仕切りがないので、家中がそのにおい。

お昼はたくさん食べたから晩御飯は軽く。子供たちが水泳から帰ってきてから、夜食という感じで、缶詰のトマトスープと庭のとうもろこしとパンでいいやと思っていたのですが、帰ってくる30分くらい前にやっぱり気が変わって、パンプキンスープを作りました。ぎりぎりで間に合いました。

しかしどうして、必要もないのにこうも料理してしまうんだろう。ほんと、おさんどん根性がついてしまったみたいだなあ。
そうそう、今日のポークはなんと焼く前で1.6キロもあったんです。まさか全部食べないだろうから、明日の晩御飯に残りを使えるかなあと思っていたら、恐ろしいことに全部なくなりました。まあ、わたしもよく食べるほうなんですが、チャーリーなんてわたしの倍のスピードで倍食べた。こんな風だから出来合いの食べ物なんかでは量的にぜんぜんたりないから、自分で作ることになるんだろうなあ。子供3人でなくて本当によかった。

2009年10月3日土曜日

子供の教育


IKEAで買ったワードローブができました。これで59ポンドですから、1万2000円くらい。安いモンです。ちなみにわたしはぜんぜん手伝わなかったのですが(賢明)、45分くらいでできたそうです。

昨日の夜、昔ロンドンの銀行で一緒に働いていた友達に、1年以上ぶりに電話して話しました。彼女は今ロンドンの南の郊外に住んでいて、まだシティーで働いてます。彼女のところにはルイと同じ年の男の子がいます。二人とも今小学校6年生で、来年9月から中学に行きます。

イギリスの中学というのは5年制で、その後卒業しても良いけど、大学に行きたい人はそのあと2年間シックスス・フォーム(6th form)というコースを取ります。これはその中学に残ることもできるし、別の短大のようなところで勉強しても良い。ここで勉強してAレベルというテストを受けます。このA レベルの結果で大学が決まるので、シックスス・フォームと言うのは、進学校の高校か予備校のようなものです。

イギリスの中学というのは昔(わたしたちの年代)は小学校を卒業する11歳でイレブン・プラスという試験を受け、それで勉強のできる子はグラマースクールという学校に良き、できない子はセカンダリー・モダンという学校にいくというシステムでした。でもこれは労働者階級とエリート階級の格差を広げるばかりで、しかもそれを11歳で決めるのは酷だという声がたかまり、このテストは廃止されて、みんなコンプリヘンシブという普通科の中学に行くようになりました。

それがまた最近はシステムが変わって、選抜式の学校ができて、地区によってはイレブン・プラスがまた導入されたという話をちらりとニュースで聞いていました。

でもうちの家のあたりはそもそも中学と中学の間が離れているから、通学できる学校が限られているので、この辺の子はみんな同じ中学に行きます。まあ日本の公立の中学と同じようなものです。もしも校区の学校が嫌な人は、別の学校に申し込めますが、学校のレベルとしては大差がありません。イレブン・プラスのテストもない。それなので実際のチョイスとしては、公立に入れるか私立に入れるかですが、多くの家庭にとっては、お金のかかる私立なんて問題外です。

ルイは今年が最後の年なので、どこの中学に入れたいかという申請を先日しました。行く先は校区の友達がみんな行くビデフォード・カレッジ。来来週にオープンモーニングというのがあって、学校見学に行きます。

前置きが長くなりましたが、本題。その昔の友達との電話のことです。彼女の子供の話を聞いて、わたしは本当に絶句してしまいました。

彼女の住むあたりは選抜校があり、お母さんたちはみんな躍起になって自分の子供をそこに入れようとしてるんですって。多分感じとしては、日本の公立高校の入試のようなものかな。そのためにはもうすぐもたれるイレブン・プラステストで良い成績を上げねばならず、彼女のところは家庭教師も来るし、毎日彼女が勉強を見て、週末に模試を受けたり、学校の試験を受けたりしているそうです。

信じられない。うちとぜんぜん違う。うちだけでなく、この辺の人はそんなことはぜんぜんしません。私なんて学校がどんなカリキュラムかも知らないし、ただ毎日宿題した?と聞くだけ。勉強なんて3年生くらい以来見てないし、向こうだってわたしに勉強なんて見てもらいたくないと思う。普段は習い事とか水泳であちこち走り回って、そんな時間はまったくなし。

うちの子供たちはどちらも学校の成績はトップクラスで、いつも先生に「何も言うことありません」って言われるので、ぜんぜん心配してなかったんだけど、でもトップクラスとはいえ、この学校って一学年20人しかいないんです。だからトップクラスで当たり前というか、本当にそれがどのレベルなのかよくわからない。でも先生がよくできるって言うからそれを真に受けてたんだけど、本当にそれで良いのかと心配になってきました。

中学に行ってもこの調子ならまずトップクラスかもしれないけど、でも所詮こんな田舎の公立中学校。2000人以上もいる学校なので、毎年良い大学に行く生徒は何人かいるようだけど、本当に大丈夫なのかな。ロンドンやその近郊では、日本並みに教育ママが子供を勉強させているようだし、年々厳しくなってきている大学受験、そんな子供たちと同じ土俵で、ちゃんと良い大学、希望の大学にいけるんだろうか。

でも実際問題、引越しするつもりもないし、とにかく今は習い事とスポーツでそんな余裕はぜんぜんありません。学校の先生が問題ないって言ってるところを、無理やり勉強させる必要もない気がするし、それになんといっても子供たちは毎日結構幸せそうにしているので、そんなプレッシャーをかけてしんどい思いをさせたくない。

むしろ親が言うと逆効果ということもありますよね。私もわたしの妹も、母子家庭で母が働いていたのでほとんど塾にも行かずまったく放任で育ちましたが、まあまあ世間並みの大学を卒業したし。親がうるさい家が受験が成功するというわけではぜんぜんないしなあ。 わたしなんて反骨精神が旺盛だから、勉強しろといわれれば、ただ自分の自由を証明するだけのために、わざと勉強しなかったかもしれない。

でも一方ではわたしは大阪の公立高校で波にもまれてきたし、中学も高校も大きい学校でかなり勉強にはうるさかった。家では何も言われなかったけど、確かに学校はしっかり勉強しないとついていけないような環境でした。ルイやチャーリーの学校のような、教会に付属の一学年20人のかわいい村の小学校ではありません。

勉強だけの問題にとどまらないこともあります。わたしの日本の友達にはもう子供が中学や高校という人たちもいますが、親が勉強に口やかましいほど、そのくらいの年になって親子の仲がうまく行かなくなる傾向があるようにも思えるし。うーん。

そのロンドンの友達の場合は、今は彼もお母さんの言うことを聞いてがんばってるようですが、彼女があまりにもそのことしか頭にないのも気にかかる。親が自分が良い学校に行くことだけを生きがいにしてるのって、子供にとってすごい負担ですよ。彼女には、「大きくなって家庭内暴力なんて話もあるから、気をつけてね」とは言ったけど。

子供には良い大学にいって欲しい、スポーツで活躍して欲しい、ピアノが上手になって欲しい、ロイヤルバレエに入って欲しい等々、わたしも含め親と言うのははいろいろ期待があるわけですが、それって80パーセントくらいは勝手な親のエゴです。子供のために自分を犠牲に、なんて聞こえが良いけど、それはウソ。自分自身が生きがいが見つけられないから子供のアチーブメントを生きがいにしたり、子供が良い学校に行ったりスポーツで活躍すると鼻が高いとか、そういった親の都合勝手な動機が半分。親のわたしが言うんだから本当です。

だからわたしも子供には過剰な期待やプレッシャーはかけたくないんだけど、でもやっぱり気になる会話でした。今のままで良いんだろうか、良いに違いないけど、でもほんとになにもしなくていいのかなって。

「アブラハムの教え」によると、子供は放っておけば放っておくほど良いとのこと。わたしもそうだと思っています。だからますますお母さんはこれから自分勝手に趣味を広げて、好きにさせてもらって、あなたたちをのびのび自由に成長させてあげるわ、ほっほっほ。
お母さんは趣味の詩のブログ、また更新しました。写真も載せてあります。http://fordfarmpoems.blogspot.com/

2009年10月2日金曜日

愛国心

昨日ついていたテレビをチラッと見たら、湾岸戦争についての映画でした。ほんの一部しか見なかったのですが、アメリカの兵隊たちが上司(軍曹っていうんだっけ?)に、「軍隊にいる間はお前たちは言論の自由なんかない。」といわれたあと、テレビのインタビューを受けます。そこで「自分の国のために戦争に来ていることを誇りに思います。」なんてありふれた受け答えをします。

それを見ていて、自分の国ってどういうことだろうとふと疑問がわいてきました。この映画の場合はもちろんアメリカなんだけど、どうしてそんな大きな国に、自分がそこで生まれ育ったというだけで、愛情をもてるんだろう。そこで生まれたかどうかの違いだけで、どうしてある国を愛して、ある国は敵になるんだろう。愛してるというのは、概念としてのアメリカなんだろうか、それともアメリカ人を愛してるんだろうか?ということは、イラク人を憎んでいるんだろうか?

アメリカなんて大きな国、南のアラバマとニューヨークなんて先進国と発展途上国くらいの違いがあるし、人種だっていろいろある。英語を話さないヒスパニックの人や、黒人やゲイやなどの少数派も、同じように愛国心をもてるのだろうか。そして彼らは、白人の兵隊が「愛するアメリカ」と呼ぶ対象の中に入ってるんだろうか。

イギリスに住む前から、愛国心というのはわたしにはちょっとよくわからないことでした。自分が日本を愛してるかと聞かれれば、よくわからないというのが正直な答え。今はイギリスに住んでるけど、別に日本を愛してるともイギリスを愛してるとも実感はありません。

日本といっても文化だとか文学、芸術など、すばらしいなあと思うところもありますが、こんなところが嫌だなあというところもいろいろあります。別に生まれ育った国だから特にすばらしいとも思わない。それを言えばイギリスでも一緒で、すばらしい面もたくさんあって、日本に対してちょっと自慢したいようなこともないではないけれど、もちろんぜんぜん好きでない面もある。

でもイギリスでは愛国心というのは美徳だとされています。イギリスでは戦争を名誉ある誇り高きことだと見る傾向があります。チャーチルにしてもサッチャーにしても、戦争で名を上げた総理大臣は多い。だからブレア首相も国民の大反対を押し切って戦争してしまいました。「イギリスを勝利に導いた名誉ある歴代首相」になるという誘惑には勝てなかったんですね。(結果は逆になりましたが。)この辺が戦争に勝った国と負けた国の違いだなあとしみじみ思います。

でもそんな愛国心を重んじるイギリスで外国人として住むのは、居心地が良いことではないです。実際問題としては、マスコミ等で人種差別など取り上げられますが、生活実感としてはイギリス人は外人とか移民に対して寛容で親切な国だと思います。日本なんかよりはずっと寛容。それでも普通のイギリス人は、愛国心=美徳ということに対して疑問を持つことはありません。その愛国心がわたしのような外国人をちょっと居心地悪くさせているんだということも、考え付きません。

日本はどうなんだろう。わたしが高校生の頃は君が代とか国旗のことがよく話題になりました。高校の卒業式には君が代は歌われなかったように覚えています。それはあの頃の先生の間で、話し合いや議論があったんだろうけど、私たちのようなのんきな高校生はその内容は興味ありませんでしたし、巻き込まれることもなかった。でも確かに、日本人にとっては、今はともかく、少なくとも25年位前までは、愛国心というのはそんなに素直な単純な美徳ではなかった。

でも愛国心はよくわからないわたしですが、郷土愛というのはありますね。大阪の人はたいていそうかもしれませんが、わたしは大阪が大好き。あの難波あたりのワーッと来るエネルギーも好きだし、大阪弁も大好きだし、あの商売っ気のあるあっさりした大阪の気質も好きです。

でもそれは地理的に好きというわけでは全然ないし、大阪人がみんな好きかというと、そうでもない。大阪気質と一言で言っても、そうでない人もたくさんいます。だから具体的なものというよりは、大阪という概念、というか大阪という言葉が象徴するものがすきなんだと思います。

でももしもわたしが大阪育ちではなく、奈良育ちだったら、どう思ったかな?やっぱり奈良が好きって思ったんだろうか?大阪って言うのはテレビでもよく取り上げられるし、ある意味で特殊なところですが、たとえば岐阜とか石川県とか、マイナーな県でも同じなのかなあ。

ではその郷土愛を国という単位に広げれば愛国心ではないかということになるんですけど、私の場合はそうすんなりと日本が好きとは思えない。やっぱり骨をうずめるなら日本とも思わないし、日本を良い国にしたいとか、日本のためになりたいとも思わない。それは人のためになりたいと思わないのではなく、別に日本でもロシアでもインドでも、人のためなら人のためで国籍は問わない。だから募金の寄付はまず日本かイギリスの恵まれない子供が優先とも思いません。それは日本というものがあまりに大きいコンセプトだからでしょうか。その一方ではイギリスでオリンピックなんかを見ると、日本の若者はがんばってるなあと嬉しくなるし、それは愛国心といえるのかもしれない。だから時と場合によるのかもしれませんね。

まあ難しい話はともかく、わたしは大阪弁が大好きです。今回日本に行ったときに、関西出身で大学以来ずっと東京という人と同席したときに、ふと「冷房寒ない?」と聞いてくれたことがありました。私とその人はロンドンで知り合ったので、ずっと標準語で話す関係だったのですが、わたしがふと大阪弁を使ったのにつられて、その人も関西弁が出たようでした。

それを聞いて、大阪弁というか、関西のアクセントって良いなあってしみじみ思いました。標準語というのは誰でもしゃべれるけど、関西のアクセントって大人になってから覚えられないみたいでしょ。どんなにがんばっても、やっぱりわたしなんかが聞けばわかる。それを思って、「ああ、大阪弁で育ってよかったなあ。」としみじみ思いました。

詩のブログ更新しておきました。昔書いた詩で、今ではあまり自分では納得がいかないんだけど(心が離れたのか、)これ以上手を入れることもないだろうから、載せます。よければ見てね。短いです。
http://fordfarmpoems.blogspot.com/

2009年10月1日木曜日

Procrastination


今日のタイトルのProcrastinationというのは、「ぐずぐずする」と辞書に載っています。もっと詳しく説明すると、やらないといけないこと、やっておいたほうが良いことがあるんだけど、それを先延ばしにしてなかなかやらないこと。

わたしは普通はその日にやらないといけないことは無理してでも済ませて、余裕があれば明日の分もやっておきたいほうです。それはそれで律儀というか、悪い性格ではないと思うんだけど、時々疲れます。昔メキシコに住んでいた人が、メキシコ人は今日しなくても良いことは絶対に今日しないといっていましたが、時々そういう性格になれたらなあと思う。

でもそういう性格のわたしですが、proctastinateして、ぐずぐず先延ばしにしていることがあります。それはエッセイ。

おととしの11月位からふと思い立って、デボンについてのエッセイを書き始めたんです。その頃は今のようにブログをつけていなかったし、日本語を書くのは久しぶりというところでした。それまでにも一度銀行勤めを辞めたときに、毎日家でロンドンについてのエッセイを書いたのですが、初稿が終わったところで放ったらかしにしてありました。そのときは一人暮らしで働いてもいず、一日中書いていられたのですが、ほんと、結構しんどい思いをして書きました。でも本1冊分くらいは書こうとがんばりました。

それが今回はさらさらかけるんです。時間もまとめて取れないし、家事の合間とか、夜子供が寝たあと書いてたんですが、割と短期間に本にするには長すぎるくらい書けました。それが去年の春。それから推敲を何度もして、同時になんとなく出版社に出版の打診とかを始めました。それで結局長すぎるということで、また今年の春過ぎから再び推敲して、3分の2くらいに減らしています。それがそろそろ終わりかけになってきました。

初稿が書き終わったのは1年半くらい前。その間は夢中で書いていましたが、推敲になると結構つまらない。だってもう自分の書きたいことは書いてしまったのだし、気持ちとしてはもう次のことに向かっているから。それで推敲する傍ら、別のエッセイ(奇談集)だとか詩だとか小説だとか、文学賞に出すための原稿なんかを書いています。ブログもそうしているうちにはじめました。

そうしているうちに、気持ちはデボンのエッセイからはますます離れていって、もっと違うことを書きたいし、文学賞だとかコンテストだとか、詩や小説ももっとやりたいなあという気になってきました。

推敲ってやりだすときりがないんですよね。特にワープロだから、いくらでも直せるし、時間を空けて前書いた物を読むと、変えたいところもどうしても出てくる。それでこのデボンのエッセイはこれで終わりにしようと思っています。今最後の章の推敲が終わって、これを縦書きに直しているところ。これが終わったらもう一度はじめから通して読んで、目次を作ってあらすじをまとめて、それで最後にしたいんです。

最後にしたらどうするかというと、また出版社をいくつか当たってみるつもりです。でもそれで良い返事がもらえようともらえまいと、もう書き直すの嫌だなあって言う気になってます。だからはじめに書いたprocrastination。なかなか筆が進まないというか、ワープロに向かう気になれない。もうこれにかかわるのは飽きたという気持ちと同時に、きっぱり足を洗いきれない気持ち。そして本当に最後の推敲が終わったら、もっと熱心に出版社にコンタクトをしない口実がなくなるから、それも怖いというかめんどくさいというか。結局却下されるのが怖いんでしょうね。 Fear of rejection.

でも人生にはけじめが大切というか、パタンとページを閉じて次に進まないといけない時もある。こんなことそんな大げさに言うほどのことでもないんだけど、そういう時が来た気がします。そうしたら今度は書きかけの奇談集にまた取り掛かれるし、小説のほうももうちょっと膨らませたいし、公募ガイドをチェックしてまた文学賞に応募したいしなど。そこからはまた新しいチャレンジというか、楽しみがあります。

こうして思うと、何年も文章をぜんぜん書かなくて、(でもそういえば思い出しましたが、5年位前にロンドン出版の日本語の雑誌に半年ほどエッセイを連載してもらってたこともありました。)それがふとしたきっかけで書いてみようかなという気になって、今ではそれが踏み台となって次の野望というか希望というかが生まれてる。そうして思えば、別にただの趣味のレベルの話ですが、いろんなことがいろいろ良い方向で廻ってきている気がします。ブログをはじめたおかげて知り合った方だとか、長年音信不通になっていてまたお付き合いが始まった方だとか、楽しいことがたくさん増えたし。

One thing always leads to another. そう思えば、デボンのエッセイがどうなろうと、それを書くことによっていろいろまた新たな楽しみや可能性が出てきたわけです。だからそろそProcrastinationもやめて、このエッセイを仕上げなきゃ。

今日の写真は庭に咲いていたひまわり。この週末から寒くなるということなので、切花にして家に入れました。どんなデザイナーのどんな高いインテリア用品よりも、結局本物の花よりぱっと目を引いて部屋を生き生きさせるものってないと思いませんか。その中でもわたしは特にひまわりとチューリップが好きです。