先日ある人が自分のブログに「世の中、大半は無名の凡人ですから。」と書いていました。周りを見回してみると、確かにそれは当たってるような気はしますね。
世の中の人たちに「あなたの人生は凡庸ですか?」一体どんな返答が返ってくるでしょうね?
「はいそうなんです。平凡で幸せな人生です。」と答える人もいるかもしれませんね。「そうだよ、平凡で退屈でしょうもない人生だよ。」という人もいるでしょう。
私は子供のときから母に「平凡な人生が一番いい」といわれて育ったように記憶しています。うちは母子家庭だったので金銭的にも社会的な面でも苦労がありました。それなので母から見た私はもうすでにスタート時点から普通の家庭の子供に比べると劣っているので、平凡な人生で終われば上々と思っていたのかもしれません。
その上私は子供の頃は病気がちで入院も手術も受けたことがあったし、小学校高学年の頃には心臓病であまり学校にも行ってなかったくらいなので、人並みに成人してくれたらそれだけで十分という気持ちもあったでしょう。運動どころか、勉強も別にがんばらなくてもいいという空気の中で育ちました。
それなので、私は子供の頃はぜんぜん野心や、それどころか将来こういうことをしたいという希望もあまりなく育ちましたね。勉強はできたので、もうちょっと将来に対して希望を抱いていてもよさそうなものだったんですが。
それでも中学1年 頃友人と話をしていたときのことをはっきり覚えています。その頃私の英語の成績はクラスで5-10番目くらい、その友人は私よりちょっと上でした。でもそのとき、「私はそのうち、たいした努力もしなくても、クラス中の誰よりも、ずっとずっと比較にならないくらい英語が上達する。」とはっきりと確信しました。別におごってそう思ったわけではなく、ただぴんとそういう直感がしたんです。
大学生の頃は、専攻のロシア語に興味をあまり持てなかったので、ロシア語はまあ落第しない程度にしか勉強しなかったですね。むしろ国文学とかロシア文学とか英語とか興味あるのだけ勉強してました。そのころサリンジャーとかリチャードバックなどの小説を読んでいたのですが、それらを読んでいると何度か「私にはすばらしい人生が待っている。」と、勘というかインスピレーションというか、妙な苦しいような気持ちになりました。私というのは私という個人だけでなく、我々の世代という意味も含めて感じたように思います。
それで今に至っていますが、今は「平凡な人生を送りたい。」なんて微塵にも思いませんね。非凡な人生を送りたいです。その気持ちはどんどん強まっていて、大学生の頃よりも30くらいの頃よりも、今が一番そう思っています。すごい人生を送りたい、周りの常識をぶっちぎるような人生を送りたいです。
極端に言ってしまえば、幸せな人生なんて送らなくてもいい。もしもそれが「平凡な幸せ」なら、そんなものにはぜんぜん興味はなし。ただ生き生きと、生きているということを実感しながら生きたいんです。
でもでは具体的に何を成し遂げたいのか。それが見つからない。
Ask and It Is Given. 「求めるものは与えられる。」とキリストもアブラハムも言います。望むものがあれば、それが富でも健康でも地位でも、それよりもっと些細なものでも、それが必ず与えられることを100パーセント疑いなく信じて、心配したりあせったりしない限り、望みはかないます。(でもまあそれが普通の人間にはできない。というか、それが凡人と偉人の違いなんでしょうけどね。)
でも一旦欲望がかなってしまえば、幸せなのはつかの間で、また次の欲望がやってくる。でもそれでいいんです。その欲望こそが人生のヘッドライトのようなもので、 それがあるからこそ我々は成長し続けるし、エネルギーを流し続けられる。つまりその欲望自体はどんなものでもいい。望むものがあるからこそ、パッションを傾けられるものがあるからこそ、生き生きと生きていられる。
だから私が一番欲しいものは、情熱を傾けられる目標、野望、夢、欲望。
思えばそのために、ちょっとでも興味をそそるものは、旅行でもガーデニングでも自給自足でも小説や詩やエッセイ執筆でも、かなり時間と情熱を注いできました。でもやっぱりこれというものが見つからない。
だからもう探すのはやめようかと思います。ただ毎日元気に楽しく暮らしていれば、あちらから勝手にやってくるような気が今はすごくしています。
Ask and It Is Given.
来年の今頃はそれを10大ニュースの一番にあげたいですね。
3 件のコメント:
その気持ちすごくよくわかりますよ。私も小さい頃からフランスに海外留学しているおばさんやら、ノーベル賞を目指しているおじさんなどが近くにいて、親戚の中に勝ち組負け組の構造があり、平凡で幸せなのが一番なんて言う雰囲気は周りに全くなかったので、平凡な人たちは出来が悪くて仕方なく平凡になってしまった人たちで、不満を溜めて非凡な人を心の中ではうらやましがりつつ卑屈になってるんだと思ってましたね。実際そんなことばっかり言ってるうだつが上がらない嫌味なおじさんとかいたし。そんな不満が鬱積した田舎から早く出ていきたいと小学校5年生の頃から強く思うようになり、県外の大学に行って羽ばたくんだと野心を膨らませてました。
まあこういう子供の頃の環境やなんかが価値観を作るんだろうけど、それってもはや変わるもんじゃないし、私は平凡な人生を送るくらいなら人生なんか別にもう終わってもいいって感じですね。エキサイティングな人生を送りたいよね。
ふと周りを見渡してみたんだけど、電車の中の知らない人はともかく、仲のいい人のほとんどは凡人とはいい難い、ちょっと面白い人生を送ってるような人ばかりでした。特に女性の友人。類は友を呼ぶんだろうね。
こうして比べてみると、私とあくあさんは生まれ育った環境はぜんぜん違うのにね。私は知る限りでは親類は平凡な人生を送ってる人ばかりで、「この我々の血筋から非凡な人間が出るわけない。」という空気が漂っていました。足を引っ張るだとか妬むだとかではないけど、「がんばっても所詮知れてるだろうなあ、かわいそうになあ。」という感じでしたね。
あんまり環境って関係ないのかな。アブラハムいわく、この人生が初めての人生というわけでもなし、生まれてくる時点で「今度はちょっと派手な人生を送ってやるぞ」と思いながら生まれてきたのかも。
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